テーバイ
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紀元前364年にはキュノスケファライの戦いでペロピダスが戦死。紀元前362年マンティネイアの戦いでエパメイノンダスをはじめ多くの将軍を失った。エパメイノンダスに代わる有能な指導者を持たなかったテーバイは覇権を失い、復活したアテナイの後塵を拝することになる。

第三次神聖戦争(英語版)(紀元前356年?紀元前346年)で、テーバイはアテナイ、スパルタなどと同盟したフォキスと戦ったが、中部ギリシャにおいて優勢を維持することはできなかった。テーバイはマケドニア王ピリッポス2世の助力を得ることでようやく勝利を手にしたが、この戦争はピリッポスのギリシアでの勢力拡大へと繋がった。
マケドニアとの抗争

マケドニア王国ピリッポス2世は、覇権国家だった当時のテーバイに人質として暮らし、エパメイノンダスから教育を受けたとされる。

紀元前339年、アテナイの指導者であるデモステネスは、反マケドニアの立場でテーバイを説得し、同盟を結んだ。紀元前338年カイロネイアの戦いで、ピリッポス2世とその子アレクサンドロス(のちのアレクサンドロス3世)が率いるマケドニア軍と戦ったテーバイ・アテナイ連合軍は敗れた。この戦いで、神聖隊も壊滅を遂げた。これにより、ギリシャに対するマケドニアの影響を排除する希望は失われた。ピリッポス2世はボイオーティアに対する支配権を剥奪するのみで満足した。

紀元前335年、ピリッポス2世が暗殺されると、ギリシャの諸都市はマケドニアから離反した。テーバイはアテナイと結び、蜂起した市民はマケドニア軍を追放してアレクサンドロス3世に反旗を翻した。北方を転戦していたアレクサンドロスは直ちに反応してギリシャに急行した。他の都市はアレクサンドロスの強行軍の前に抵抗をためらったが、テーバイは徹底抗戦を決めた。結果、テーバイは蹂躙された。テーバイは徹底して破壊され、殺戮の中で生き残った住民は奴隷として売り飛ばされた。破壊を免れたのは寺院とピンダロス(テーバイ出身の紀元前5世紀の詩人)の家のみ、奴隷化を免れたのは聖職者と親マケドニアの指導者、ピンダロスの末裔だけであった。テーバイの末路に恐怖したアテナイは、マケドニアに屈服した。
その後のテーバイ「ティーヴァ」を参照

紀元前316年カッサンドロスによってテーバイは再建された。中世に入ると、東ローマ帝国のもとで絹織物の産地として発展を遂げることとなる。
神話におけるテーバイ

テーバイは、ギリシャ神話で重要な役割を果たす土地である。

神話によれば、テーバイの創建者はカドモスである。フェニキアアゲーノールの命でゼウスに攫われたエウロペを捜索していたカドモスは、エウロペが見付からないので帰国できず、代わりにアレスの竜を討伐してテーバイを建国した。カドモスはハルモニアーと結婚し、複数の子女をもうけたが、ことごとく不幸な死を遂げた。そのひとり王女セメレーがゼウスとの間になした子が、豊穣とブドウ酒と酩酊の神ディオニューソスである。

父を殺し母を妻としたオイディプースの悲劇の舞台であり、オイディプースはカドモスの玄孫にあたる。

オイディプースには2人の男子(エテオクレースポリュネイケス)と2人の女子(アンティゴネー、イスメーネー)がいた。2人の男子は王位をめぐって争い、テーバイ攻めの七将の物語となる。七将は攻略に失敗し、反逆者として埋葬が禁止された兄ポリュネイケースの亡骸を葬ったアンティゴネーは自害した。10年後に七将の息子たち(エピゴノイ)が勝利を収める。神話によればテーバイには七つの門があるとされ、テーバイ攻めの七将やその息子達にあたるエピゴノイ達は各将が一つずつ門を攻め、対するテーバイ側も各門に一人ずつの将を配して対抗した。

また、大英雄ヘーラクレース出生の地でもあり、ここからテーバイの重装歩兵の盾の紋章には棍棒(ヘーラクレースの象徴)の絵がよく用いられていた。

テーバイに関する神話・神話上の人物として以下のものがある:

カドモスの竜退治

スパルトイ

ハルモニアーの首飾り

ディオニューソス

ペンテウスアガウエー

オイディプース

テイレシアース

テーバイ攻めの七将

アンティゴネーとイスメーネー

エピゴノイ

ディオメーデースステネロスエウリュアロストロイア戦争にも参戦


脚注^ 古代ギリシア語ラテン翻字: Th?bai、発音:[t????baj]

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ギリシャ・テーバイ紀行 - ウェイバックマシン(2004年5月18日アーカイブ分)(日本語) 現代のテーバイに伝説の七つの門を訪ねる旅

地図(Coordinates): 北緯38度19分0秒 東経23度19分0秒 / 北緯38.31667度 東経23.31667度 / 38.31667; 23.31667


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