テレビ
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なお有馬哲夫の『テレビの夢から覚めるまで』[10]によれば、1950年代に米国でテレビが一般家庭に普及し始めた頃、アメリカの人々は大真面目に以下のように思っていたという[11]。テレビは、神からのクリスマス・プレゼントだ。われわれは、このプレゼントを手にして娯楽のことばかりを考えるのではなく、人類の善意と地上の平和のことを、そして、それにいかに役立てるかをも考えなければならない。テレビを通じて、いかにひとびとの蒙を啓き、偏見を根絶し、理解を深めるかに心くだかなければならない。テレビこそ、その未来を開いてくれるだろう。 ? 有馬哲夫、『テレビの夢から覚めるまで アメリカ1950年代テレビ文化社会史』(1997年/国文社)

1956年 - アンペックス社、白黒2インチVTR1号機「VR-1000」を発表。3年後にはカラーVTRの発表に至る[9]

1962年 - 12月13日、通信衛星リレー1号」打ち上げ成功[9]。後述の日米衛星中継試験に用いられた。

1965年 - イギリスがカラーテレビ放送標準規格としてPAL方式を採用[9]
ニュージーランドでのカラー放送の試験(1977年)

1967年 - フランスSECAM方式によるカラー放送開始[9]

1984年 - フランスで世界初の有料多チャンネル放送Canal+がサービス開始[9]

1988年 - 9月より、BBCがDVB-T形式による世界初のデジタルテレビ放送試験放送を開始。

1995年 - 7月、デジタルテレビ放送等のための映像・音声データ圧縮フォーマット基準MPEG-2が策定される[9]

2009年 - 6月12日、アメリカ合衆国でほとんどのNTSC方式の放送停止。ATSC方式デジタルテレビ放送へ全面移行[8]

フランス

上節ではヨーロッパ諸国とアメリカをごちゃまぜにして年表風に列挙したが、当時は現在のようにEUがあったわけではなくヨーロッパといっても国ごとに施策は異なっていたので、この節では一国の中だけで起きたことを時系列で、フランスを例にとり説明する(日本一国の中だけの出来事の説明は次の節で詳説するので、ここではまずフランス一国内の出来事についてまとめて理解できるように簡潔に説明する)。

フランスでは1931年4月14日に電波で行うテレビ送受信のフランス初の実演が行われた。それまでは有線での実演は行われたことはあったが電波を使うテレビの実演をするのはフランスでは初めてだった[12]。この実演を行ったのはフランスの技術者ルネ・バルテレミ(fr:Rene Barthelemy)であり、800名の招待客を前にして2キロメートルほど離れた場所からマラコフ電気高等学校とモンルージュにある会社の研究所の間で映像を伝えた。1931年12月6日にはアンリ・ド・フランス(fr:Henri de France)がテレビ放送会社 ラ・コンパニ・ジェネラル・ドゥ・テレヴィジオン(la Compagnie generale de television )社(CGT)を設立。1932年12月にはルネ・バルテレミがテレビカメラを発明し実験的な白黒放送番組「Paris Television」を毎週1時間放送し、これを受信するためのテレビ受像機がおよそ100台ほど用意された。そのほとんどは公開用テレビ受像機つまり個人が所有するものではなく公共の場に設置して皆で観るものだった。1935年4月26日にはフランスで初の公式テレビ放送を開始するとの宣言が当時のフランス郵政大臣のジョルジュ・マンデル(fr:Georges Mandel)によって行われた。1935年11月17日には(前述の技術者)バルテレミが走査線の数を180本まで増やし解像度を上げるのに成功し、放送用送信機をエッフェル塔の先端に設置。1937年1月4日には毎晩20時から20時半のテレビ放送(レギュラー放送)が開始され、数百台のテレビ受像機が個人宅に設置された。
日本
1940年代以前

1931年 -
日本放送協会(省略NHK)放送技術研究所でテレビの研究開始。

1932年 - 早大式は有線から無線電波式に改良された。

1933年 - 早大式に日本放送協会から多額の研究資金が提供され、同年秋に日本最初のテレビジョン研究室が同大学構内に建設された。

1934年 - この年の1月12日付の新聞で山本は「将来的に映画に匹敵する画質」「生中継ではなく、撮影を行い、適宜に編集を行った上で放送するようになる」と発言している。

1935年3月 - 5月まで横浜で開催された関東大震災復興記念横浜大博覧会にて、逓信省電気試験所の曽根有(山本忠興門下)らが開発したテレビジョン電話試作機が展示された。テレビ電話の先駆けとなるこの機械は、双方の視線をちゃんと合わせる改良が施された後、1937年以降は大阪市立電気科学館に設置された。

1937年 - この頃から高柳がNHKに出向し、1940年に予定されていた東京オリンピックを見据えてのブラウン管式テレビジョン研究に参加する。

1939年 - 3月に日本でNHK放送技術研究所によるテレビ実験放送開始。5月13日には公開実験[13]

1940年 - 4月13日、日本初のテレビドラマ夕餉前」の実験放送。東京オリンピックは日中戦争激化の影響などを受けて中止となり、テレビジョン研究は中止され、技術者は無線通信やレーダーの開発を求められた。

1945年 - 敗戦直後、日本のテレビ研究がGHQにより禁止される[14]

1946年 - 高柳は弟子らと共に日本ビクターに入社しテレビジョンの研究を続けた。7月、テレビ研究禁止令が解除され、11月よりNHKが研究を再開した[14]

高柳が中心となりNHK、シャープ、東芝と共同でテレビジョン放送技術とテレビジョン受像機を開発した(後述)。

1950年代昭和30年代の街頭テレビの再現。(新横浜ラーメン博物館にて)1955年 三菱電機TV受像機の広告テレビの日本での世帯普及率の推移

1950年 - 5月、電波法放送法電波監理委員会設置法の「電波3法」施行。

1951年 - GHQの要請により電波監理委員会メンバーが視察のため渡米[14]。その後、アメリカから3人のコンサルタントが来日。軍事戦略のひとつとして占領国でのテレビ放送利用を重要視していたアメリカの圧力によりアメリカ式(NTSC方式)の技術標準が日本で採用される[14]

1952年 - 松下電器産業(パナソニックの前身)が日本初の民生用テレビを発売[15]

1953年(昭和28年)

1月 - シャープが国産第1号のテレビ「TV3-14T」を発売[16]。価格は175,000円。

2月1日 - NHK東京テレビジョン(コールサインJOAK-TV)のテレビ放送開始(日本初の地上波テレビ放送の開始)。

8月28日 - 日本テレビ(NTV、コールサインJOAX-TV)、テレビ放送開始(民間放送初のテレビ放送の開始)。またこの日、日本初のテレビCMを放送する際、画面が裏返しに映る放送事故が発生した。
当時の主な番組は大相撲プロレスプロ野球などのスポーツ中継や、記録映画など。

1954年 - 4月、電電公社の整備による放送用無線中継回線が開通。

1955年 - 4月1日、ラジオ東京テレビ(コールサインJOKR-TV)がテレビ放送開始。ラジオ局として発足した放送局による初のテレビ放送開始。TBSテレビの前身。

以降の民間放送開局年月日は民間放送#沿革参照。

当時、白米10キログラムが約680円、銭湯の入浴料が約15円であったのに対し、テレビ受像機の価格は約20万?30万円であり、一般人にとっては非常に高価であったため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに設置された街頭テレビ、土地の名士などの一部の富裕世帯宅、客寄せにテレビを設置した飲食店などで番組を見ていた。

7月 - NHK放送技術研究所、イメージオルシコンの国産化に成功。


1956年 - 12月、NHKのカラーテレビ実験放送開始(UHF帯を使用)[17]

1957年 - 12月28日、NHK東京・日本テレビがカラー試験放送開始(VHF帯を使用)。

1958年

1月23日 - 日本民間放送連盟(民放連)が「放送基準」を制定[18]

9月1日 - 映画会社主要6社が、この日よりテレビ局への作品販売や所属俳優の派遣を完全に停止(六社協定[19]


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