2011年7月24日終了時点
親局 JOEX-TV、東京10ch 50kw(東京タワー)
東京都
八王子 - 45ch
多摩 - 57ch
新島 - 60ch(垂直偏波)
八丈島 - 10ch
小笠原父島 - 59ch
茨城県
水戸 - 36ch(垂直偏波)
鹿嶋 - 29ch
日立 - 60ch
高萩 - 59ch
栃木県
宇都宮 - 41ch
日光 - 60ch
矢板 - 59ch
群馬県
前橋 - 60ch
富岡 - 59ch(垂直偏波)
桐生 - 59ch
沼田 - 59ch
埼玉県
本庄 - 59ch(垂直偏波)
秩父 - 38ch
千葉県
成田 - 59ch
銚子 - 59ch
香取佐原 - 60ch
勝浦 - 59ch
館山 - 60ch(垂直偏波)
神奈川県
横浜みなとみらい - 60ch
横須賀久里浜 - 35ch(北方向は水平偏波・西方向は垂直偏波)
平塚 - 41ch(垂直偏波)
小田原 - 60ch
沖縄県
南大東島 - 60ch
北大東島 - 48ch
…他 全99中継局。
2004年から2008年ごろはアナログ10チャン、地デジは5チャンと移行広告がなされた。 関東広域圏と隣接し、かつ系列局がない山梨県のCATV事業者に限り、デジタル放送移行後も期限を定めず区域外再送信を認めている。山梨県のCATV・共聴設備加入率は9割を超えているため、山梨県も事実上の視聴エリアとなっている。 長野県・静岡県の各一部地域のCATV事業者は各県に系列局はあるものの激変緩和措置として、区域外再放送をアナログ放送終了後3年間(2014年7月24日まで)を限度として実施していた。緩和措置の期間満了後は個別協議により次の通り継続実施した。
区域外再放送
上野原ブロードバンドコミュニケーションズ
河口湖有線テレビ放送(ケーブルテレビ河口湖)
北富士有線テレビ放送
峡西シーエーテーブイ
峡東ケーブルネット(峡東CATV)
ケーブルネットワーク大月
白根ケーブルネットワーク(白根CATV)
日本ネットワークサービス(NNS)
富士川シーエーティーヴィ
CATV富士五湖
北杜市有線テレビ放送施設(北杜市ケーブルテレビ)
山梨CATV
静岡県
2014年9月30日まで
伊豆急ケーブルネットワーク(東伊豆地区)
東伊豆有線テレビ放送
下田有線テレビ放送
小林テレビ設備
2015年3月31日まで
伊豆急ケーブルネットワーク(熱海、伊東地区)
東豆有線
伊東テレビクラブ
沿革日本教育テレビ時代のロゴ
(1957年 - 1960年)。NETテレビ時代のロゴ
(1960年 - 1977年)。日本教育テレビ時代の本社屋(後の六本木センター、1961年ごろ)。テレビ朝日の旧ロゴ
(1977年 - 2003年・ネットワークシンボル挿入前)。六本木センター(旧社屋・1989年10月撮影)。テレビ朝日の旧ロゴ
(1996年 - 2003年・ネットワークシンボルを挿入)。テレビ朝日のSNG中継車(2006年5月撮影)。
1956年6月7日:東映が東急グループの五島慶太の支援のもと「国際テレビ放送」として教育専門テレビ局の申請を提出。その後同年には日本短波放送、旺文社系「日本教育放送」、1957年に日活系「日活国際テレビ」などが第10チャンネルの割当に申請を行った[21]。
1957年
7月4日:東映・日活・新東宝のほか洋画関係の「極東テレビ」「太平洋テレビ」の合流等による「国際テレビ放送」や「日本短波放送」「日本教育放送」が各3割、東京タイムズ系の「国民テレビ」1割の資本構成で「東京教育テレビ」として教育局申請を一本化[21]。
7月5日:「東京教育テレビ」として無線免許局の申請書を提出。
7月8日:「東京教育テレビ」に予備免許交付(同日、富士テレビジョン(後のフジテレビ)、大関西テレビ放送(後の関西テレビ)にも予備免許交付)。
10月10日:発起人総会実施、社名を「日本教育テレビ」に変更[21]。
11月1日:「株式会社日本教育テレビ」設立。
1958年12月24日:正式オープン翌日の東京タワーから試験電波を発射(テストパターン)。
1959年
1月9日:本免許交付。翌日、10日から試験放送開始。
2月1日:午前10時から教育放送局として本放送を開始(映像出力10kW、音声出力5kW・開局日の編成は下記参照)。開局当初は、マスター・送信機など・局舎の放送機器のほとんどがNEC製であった。在京民放テレビ局としては3番目に開局した。開局初日で最初に放送された映像は「踊る獅子舞」であった。この映像は、2009年1月14日放送の『シルシルミシル』の中で、この日の午前10時10分[注釈 8]から放送[22]された大川博社長(当時)によるNETテレビ開局の挨拶や、当時のNETテレビ社屋(後のテレビ朝日六本木センター)の映像とともに紹介されていた。当時の本社所在地は、東京都港区麻布材木町55番地[23]。
3月1日:この日からテレビ放送を開始した毎日放送(MBS)、九州朝日放送(KBC)とネットワークを結ぶ(当初は2局とも、フジテレビとの複合ネット)。
4月10日 - この日行われた皇太子(明仁上皇)と正田美智子の成婚パレードの模様をラジオ東京テレビ(KRT、現:TBSテレビ)との共同制作により、両局で生中継[注釈 9]。
1960年
1月17日:出力を映像50kW、音声12.5kWに増力。
12月10日:社名呼称を「NETテレビ」に統一。
1961年4月3日:午前6時30分より早朝放送開始。
1963年11月23日:NHKと共同で、リレー衛星による日米間初のテレビ中継に成功。ケネディ大統領暗殺事件を伝える内容であり、当時の準キー局・毎日放送 (MBS) アメリカ支局のアナウンサーが「残念なお知らせがあります」と伝えた。
1964年
4月1日:日本初のワイドショー番組『木島則夫モーニングショー』スタート。
10月1日:福岡地区の九州朝日放送(KBC)が、フジテレビとの複合ネットから、単独ネット化に踏み切る。
1965年4月5日:『アフタヌーンショー』スタート。
1967年
3月27日:カラー放送がスタート(東京地区では4番目)。第1号はアニメ『魔法使いサリー』次回予告。
6月10日:NETテレビを幹事局とし、民間放送34社で構成する民間放送教育協会(民教協)発足。
1970年1月1日:ニュース番組のタイトルを『ANNニュース』に変更。
1971年11月20日:報道を朝日テレビニュース(後のテレビ朝日映像)に委託(1978年11月に終了)。
1973年
4月1日:名古屋地域における名古屋テレビ放送(NBN、当時は名古屋放送)と中京テレビ放送(CTV、開局当初は中京UHFテレビ放送)の2局による、日本テレビとの変則複合ネットが解消され、名古屋テレビがNETテレビの単独ネット化に踏み切る(→ネットチェンジの項参照)。
10月1日:報道スタジオ完成。スポットニュースを除き、全てのニュースがアナウンサー顔出しとなる。
11月1日:総合放送局に移行。同日総合放送局に移行した東京12チャンネルとともに「教育番組を20パーセント以上、教養番組を30パーセント以上」の確保が条件とされた。2社とも1982年の再免許の際に「教育10%以上、教養20%以上」に緩和されるまで続いた。
1974年
1月7日:石油危機により深夜放送自粛(10月に全面解除)。
3月23日:創立以来続いてきた学校放送が『みんなの東京』(小学校4年生社会科)以外終了(民教協企画の『親の目・子の目』は継続。2004年3月で終了し、『いきいき!夢キラリ』『発見!人間力』『学びEye!』『日本!食紀行』を経て、現在は『日本のチカラ』が放送されている)。
4月1日:各地のネットワーク局とニュース協定を締結し、ANN(オールニッポン・ニュースネットワーク)が正式に組織される。
11月19日:近畿地方の準キー局が、これまでの毎日放送(MBS)から朝日放送(ABC)にネットチェンジすることで基本合意。毎日放送は、これまで朝日放送がネットを組んでいた東京放送(TBS)およびJNNとネットを組むことが決定された。
1975年
3月31日:NETテレビ-朝日放送(ABC)の新ネットワークがスタート。テレビネットワークのいわゆる“腸捻転”状態が解消され、TBS系列で放送されていた『新婚さんいらっしゃい!』や『シャボン玉プレゼント』、「必殺シリーズ[注釈 10]」などの朝日放送制作番組が、NETテレビのネットワーク(ANN)に引き継がれた。
4月5日:スーパー戦隊シリーズの第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』スタート。
1976年2月2日:黒柳徹子の司会によるトーク番組『徹子の部屋』スタート。
1977年
2月7日:マスター更新(NEC製)。同時に東京タワー送信所が無人化[24]。
3月9日:1980年モスクワオリンピックの独占放映権を取得。民放一局によるオリンピックの独占放映権取得は日本初[25]。
4月1日:全国朝日放送株式会社(ANB)に商号を変更。ただし社名で呼ばれることはほとんどなく、同時に愛称として制定された「テレビ朝日」で親しまれる。
1978年
5月22日:CMバンク導入[24]。
9月22日:音声多重放送実用化試験局予備免許交付[26]。