テレビ映画
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その後はB級映画を作り直したり子ども向けの番組であったりしたが、やがて大人向けの作品を大手映画会社が製作するようになってから、今度はテレビでヒットした作品を再編集して劇場用映画にし直すことも行い[23]、やがてTVムービーで映画会社はテレビという媒体を使って複合メディアに同時に対処する新しいビジネス戦術を磨いていった[24]

そして映画の前宣伝をテレビで周到に大規模に行い、映画館での上映の後にはテレビで放映し、2次的や3次的使用を視野に多角的戦略を立て、TVムービーもテレビで放映された後に、すぐに二番館での公開上映や海外での初公開や販売も戦略の中で行うことになった。これは製作した映画がテレビ用でも劇場用でもすでに同じ映像ソフトであることを示している。
日本でのテレビ映画

日本でのテレビ草創期は、古い劇場用映画の放映以外は、生中継だけであったので劇場中継であったり、スポーツで野球・相撲中継をしていた。スタジオドラマも早い時期から生放送を行い、単発ドラマを別として、連続ドラマとして最初のものは1955年4月のKRT(ラジオ東京テレビ)の開局と同時に始まった『日真名氏飛び出す[25]であり、同じKRTが翌1956年にアメリカから最初のテレビ映画として『カウボーイGメン』が放映された[26]。そして同年11月1日からKRTで『スーパーマン』(実写ドラマ版)、日本テレビが同年11月12日から『名犬リンチンチン』を、NHKが同年10月10日から『ハイウェイ・パトロール』を放送開始して、西部劇や刑事物が多かった。テレビ局が自らテレビドラマを製作するよりも、3分の1から4分の1の予算で済む安上がりで出来のいいアメリカのテレビ映画が重宝されたのである。

これには何よりも開局当時のテレビ局に製作能力のなかったこと、テレビドラマを作れるプロダクションがなかったという事情があった。そしてもう一つの理由はアメリカと同じく大手映画会社がテレビに脅威を感じて五社協定[27]を結び、自社に所属するスターをテレビに出演させない、各社の劇映画をテレビに売らないこと[28]を決めたことであった。

そして1958年に、民間放送テレビ局の免許が下りて開局の予定が相次ぐ中で、自主製作でテレビ映画を作ろうという機運はあった。日本初のテレビ映画はKRT(現・TBS)の子会社の東京テレビ映画株式会社が製作した10分の帯番組『ぽんぽこ物語』で、1957年11月11日から放送開始され、その次に1958年2月24日から放送されたのが15分の帯番組『月光仮面』である[29]。『月光仮面』は広告代理店宣弘社が自社製作[30]した低予算番組[31]であったが大ヒットし、これが後に続く子供向けヒーロー番組[32]の嚆矢となった。

しかし当時はアメリカから輸入されたテレビ映画が主流で、この動きは1962年頃まで続き、それまでは、放送初期のアメリカと同じように子ども向けの製作が日本では主流となった。そうした状況で1959年東宝・大映・松竹が資本参加したフジテレビ東映グループとして設立した日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の2局が新たに開局。

東映は1958年に東映テレビ・プロダクションを発足させて、NETでの放映目的で『風小僧』『七色仮面』などを製作して、さらに放送終了後に再編集して、映画館で上映した。これは10年後にアメリカで誕生したTVムービーを日本が先駆けていたことになる[33]。その後1961年10月に『特別機動捜査隊』で日本初の1時間番組のテレビ映画を作り、東映グループ時代はNETの独占供給だったが、1966年に朝日新聞社が東映が有するNET株の大半を習得したのと同時に東映グループから離脱[34]したのと同時に東映グループが制作するテレビ映画は、1975年3月30日まで系列局だった毎日放送や、入れ替わりに入った朝日放送テレビといった系列局も含めた民放他局への供給を解禁された。その後も『仮面ライダーシリーズ』『スーパー戦隊シリーズ』などの子供向け特撮ヒーロー作品、『銭形平次』『暴れん坊将軍』などの時代劇、『Gメン'75』『特捜最前線』などの刑事ドラマなどを製作していった。

大映はテレビ制作室を1958年10月に設立して「大映テレビ室」と表示され、フジテレビやTBS向けを中心に制作された。


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