テレビ映画
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

これに対する打開策として、テレビ局と映画会社が共同で製作費を出して単発のテレビ映画[18]を2時間番組の中で放映して、毎週違った作品を作り、放送後このフィルムを映画会社が権利を持って国内の二番館への劇場公開して、そして海外への輸出(輸出先での劇場公開が前提)する新しいシステムを作った。これがテレビジョン・ムービー(TVムービー)またはテレフィーチャーと呼ばれ、1964年に第1作としてドン・シーゲル監督の「殺人者たち」が製作された[19]。このTVムービーは1970年代に入ると多数製作されて、スティーヴン・スピルバーグ監督の本格的な商業デビュー作となる「激突![20]もテレビ映画として制作された。

毎週同じ顔ぶれの内容で放映されるTVシリーズと、そして毎週でなく一定の期間で放映されるものをTVミニシリーズとして放送されるようになった[21]。やがて一気に放映するスタイルとして1977年秋に天才と呼ばれた編成マンのフレッド・シルバーマンが「ルーツ」を毎日60分ごとに1週間通して放映するケースを編みだした[22]。こうしてTVシリーズ、TVミニシリーズ、TVムービーの形態として、現在もテレビ映画が制作され続けている。
配信サービスのオリジナル映画

2010年代以降、Netflixが大量の"オリジナル映画"を配信している。複数エピソードに渡る作品は「TV番組・ドラマ」とされ、1エピソードからなる作品は「映画」とされている。これらの作品はほとんど劇場公開されていないため、映画とはいえ自宅での視聴が主となる。その後、映画配給会社の系列企業でもある同業のDisney+Paramount+も追随してオリジナル映画を公開し、配信と並行して劇場公開するケースも増えており、テレビ映画と劇場版映画の境界はあいまいになりつつある。
テレビと映画の関係

テレビを取り巻く環境はテレビ映画がお茶の間に入った頃に比べて全く変化した。

テレビが開局された当時は映画館の入りが悪くなるとして、テレビを脅威として見る向きと、テレビを何とか有効に使えないかと模索する向きと、映画がテレビを取り込んでしまうことに警戒する向きがあった。この逆に映画を警戒する考え方は行政の側にあって、前述の独占禁止法で製作と興行部門を切り離すことで映画会社の勢いを削ごうとした政府の意図があったのでテレビに対しても映画会社の影響を排除しょうとした。そのために映画とテレビは対立する時期があったが、やがて有効な使い方として模索するところから、映画界にとってはテレビは自らの映像ソフトの重要な供給先であることに注目した。それはテレビが開始されてすぐに戦前からのB級西部劇のスターであったウイリアム・ボイドがその作品「キャシディ」シリーズを自ら権利を買い取り、戦後にそれらの作品をテレビに供給してシリーズで放送して成功したこともあった。その後はB級映画を作り直したり子ども向けの番組であったりしたが、やがて大人向けの作品を大手映画会社が製作するようになってから、今度はテレビでヒットした作品を再編集して劇場用映画にし直すことも行い[23]、やがてTVムービーで映画会社はテレビという媒体を使って複合メディアに同時に対処する新しいビジネス戦術を磨いていった[24]

そして映画の前宣伝をテレビで周到に大規模に行い、映画館での上映の後にはテレビで放映し、2次的や3次的使用を視野に多角的戦略を立て、TVムービーもテレビで放映された後に、すぐに二番館での公開上映や海外での初公開や販売も戦略の中で行うことになった。これは製作した映画がテレビ用でも劇場用でもすでに同じ映像ソフトであることを示している。
日本でのテレビ映画

日本でのテレビ草創期は、古い劇場用映画の放映以外は、生中継だけであったので劇場中継であったり、スポーツで野球・相撲中継をしていた。スタジオドラマも早い時期から生放送を行い、単発ドラマを別として、連続ドラマとして最初のものは1955年4月のKRT(ラジオ東京テレビ)の開局と同時に始まった『日真名氏飛び出す[25]であり、同じKRTが翌1956年にアメリカから最初のテレビ映画として『カウボーイGメン』が放映された[26]。そして同年11月1日からKRTで『スーパーマン』(実写ドラマ版)、日本テレビが同年11月12日から『名犬リンチンチン』を、NHKが同年10月10日から『ハイウェイ・パトロール』を放送開始して、西部劇や刑事物が多かった。テレビ局が自らテレビドラマを製作するよりも、3分の1から4分の1の予算で済む安上がりで出来のいいアメリカのテレビ映画が重宝されたのである。

これには何よりも開局当時のテレビ局に製作能力のなかったこと、テレビドラマを作れるプロダクションがなかったという事情があった。そしてもう一つの理由はアメリカと同じく大手映画会社がテレビに脅威を感じて五社協定[27]を結び、自社に所属するスターをテレビに出演させない、各社の劇映画をテレビに売らないこと[28]を決めたことであった。

そして1958年に、民間放送テレビ局の免許が下りて開局の予定が相次ぐ中で、自主製作でテレビ映画を作ろうという機運はあった。日本初のテレビ映画はKRT(現・TBS)の子会社の東京テレビ映画株式会社が製作した10分の帯番組『ぽんぽこ物語』で、1957年11月11日から放送開始され、その次に1958年2月24日から放送されたのが15分の帯番組『月光仮面』である[29]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef