テレビ三面記事_ウィークエンダー
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注釈^ なお、前年1974年の同枠でも、石原慎太郎を司会に起用した『大晦日スペシャル'74』が放送された事があった(以上 参考:「読売新聞縮刷版」1974年・1975年・1976年のそれぞれ12月31日付のラジオ・テレビ欄)。
^ a b c 当時は日本テレビ系列・NET?テレビ朝日系列のクロスネット局だった(山口放送は1978年10月以降)。
^ 青森放送は『11PM』を1975年3月に日本テレビ系列局で最初に打ち切っていた。
^ 放送開始当初同時ネットせず、深夜枠での放送とし、代わりに東京12チャンネルの『大江戸捜査網』を時差ネットしていた。放送開始から半年後の1975年10月から同時ネットとなる。
^ 前番組『傷だらけの天使』は広島ホームテレビ(NET?テレビ朝日系列)で火曜日22時から遅れ放送していたが本番組は広島テレビ・広島ホームテレビの両局とも放送枠を確保できなかった。なお、広島テレビは従来通りフジテレビ系の遅れネット番組を編成し、広島ホームテレビの火曜日22時台は1975年10月改編まで引き続き日本テレビ系遅れネット枠とされ『金曜劇場ちんどんどん』を放送し、NET系で同枠の『TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿』(ABC制作)も土曜16:30から遅れネットしていた。
^ 南海放送は、当時は事実上TBS系・テレビ朝日系とのクロスネット編成を組んでいた。
^ 当時の社長、野村幸祐が教育界出身だった山口放送は当番組の他にも『ミセス&ミセス』・『11PM』・『お昼のワイドショー』のエログロ低俗化を訴えた[要出典]。最終的には、山口放送での当番組と『お昼のワイドショー』のネットは継続されたものの、『11PM』は1978年3月で、『ミセス&ミセス』は同年9月でネット打ち切りになった。(山口放送では『11PM』は『プロ野球ニュース』に差し替えたが、『お昼のワイドショー』については、1978年当時は裏番組の『笑っていいとも!』(1982年10月4日開始)が放送開始していなかった。尚、『ミセス&ミセス』(該当番組以降の現『スッキリ』)、『お昼のワイドショー』(現『ヒルナンデス!』)NNS加盟局でも新潟総合テレビテレビ熊本テレビ大分鹿児島テレビ放送では放送されなかった(テレビ大分を除き現在はNNS脱退)。)
^ 1979年3月までの放送エリアは香川県のみで、同年4月より岡山県でも放送開始。

出典^ 日本テレビ放送網株式会社社史編纂室 編『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年8月28日、241頁。NDLJP:11954641/133。 
^木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
^ 荒俣宏『TV博物誌』小学館、1997年、p.256
^ 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年、p.167
^ a b c d e 週刊TVガイド 1975年5月2日号 p.16 - 21「土曜日の夜、何かが起こる『テレビ三面記事 ウィークエンダー』全角度レポート」
^ 『中日新聞』1984年5月4日付夕刊
^ 読売新聞芸能部、『テレビ番組の40年』日本放送出版協会、1994年、p.383
^ 藤平芳紀『視聴率の正しい使い方』朝日新聞社、2007年、p.137
^ TVワースト7 放映の中止を要求 日本PTA全国協議会『朝日新聞』1978年(昭和53年)8月9日朝刊、13版、22面
^ 週刊TVガイド 1975年12月12日号 p.23「REPORT・泉ピン子の発言にストリッパーが抗議」
^ 毎日新聞夕刊 1975年4月5日掲載の新番組広告より
^ 讀賣新聞夕刊 1981年7月13日
^ 参考:「読売新聞・縮刷版」1984年12月31日付ラジオテレビ欄
^ 2006年12月31日付「朝日新聞」ラジオ・テレビ欄
^ 読売新聞朝刊 1976年1月4日
^ 相田洋『ドキュメンタリー 私の現場 記録と伝達の40年』日本放送出版協会、2003年、pp.192-193
^ 川本裕司『ニューメディア「誤算」の構造』リベルタ出版、2007年、p.26
^ 『東奥日報』1977年10月17日付朝夕刊のATVテレビ欄(これに『新番組「テレビ三面記事」』と記載あり)
^岩手日報』1977年9月各日朝刊テレビ欄
^福島民報』1983年9月テレビ欄

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