テルアビブ空港乱射事件
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犠牲者の中には、後にイスラエルの大統領となるエフライム・カツィールの兄で著名な科学者だったアーロン・カツィール(英語版)も含まれている。
アメリカ合衆国プエルトリコ自治連邦区民の犠牲者


Reverend Angel Berganzo

Carmelo Calderon Molina[8]

Carmela Cintron

Carmen E. Crespo

Virgen Flores

Esther Gonzalez

Blanca Gonzalez de Perez

Carmen Guzman

Eugenia Lopez

Enrique Martinez Rivera

Vasthy Zila Morales de Vega

Jose M. Otero Adorno

Antonio Pacheco

Juan Padilla

Antonio Rodriguez Morales

Consorcia Rodriguez

Jose A. Rodriguez

イスラエル人の犠牲者


Yoshua Berkowitz

Zvi Gutman

Aharon Katzir[16]

Orania Luba

Aviva Oslander

Henia Ratner

Shprinza Ringel

Adam Tzamir[8]

カナダ人の犠牲者


Luna Sabbah[17]

各国の反応
イスラエル

イスラエル政府は犠牲者の遺族に対し、補償金として公務員平均月給の75%相当(当時で約120ドル)を終身または再婚するまで支払うこととした。これはイスラエル国防軍兵士が戦闘で死亡した場合の遺族への補償基準に沿ったものである[18]

この攻撃への報復として数週間後にイスラエル諜報特務庁(モサド)は、PFLPの報道官ガッサーン・カナファーニーが7歳の姪とともに乗った自動車に爆弾を仕掛け、暗殺した[19][20]。また、主なテロ計画者であるワディ・ハダッドもモサドによって暗殺されたとの説[21]もあるが、公式記録では白血病による死亡と記載されている[22][23]

ニシム・オトマズキンヘブライ大学教授によれば、事件後、イスラエル閣僚の何人かは、「3人のテロリストを日本国民と結びつけるべきではない。そしてキブツ(イスラエルの農業共同体)には今も日本人学生と日本人ボランティアがおり、彼らは引き続き歓迎される」と述べており、イスラエル人は、3人のテロリストが日本人を代表していないことを理解していたため、この虐殺事件は、イスラエルにおける日本人へのイメージに悪い影響を与えていない[24]。そのため、反日感情が高まったり、ジャパンバッシングが発生することもなかった。「テロリズムと殺人は、ロマンチックでもなければ正当化できるものでもない。日本赤軍の物語は歴史の中の悪い痕跡であり、またそのように記憶されるべきでしょう」とオトマズキンは評した[24]
赤軍への国際的非難と日本での影響

当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による民間人への無差別虐殺には国際的な非難が起こった。アメリカのニクソン大統領は、この攻撃を「醜い暴力と流血」と呼び、イスラエルを支持していると宣言した[24]。遺憾の手紙は、イタリアからも、そして当時イスラエルと外交関係を持っていなかったヨルダンフセイン国王からも届いた[24]

アラブ-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない日本人であったことも、世界に衝撃を与えた。日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った[25]

日本国内でも、その年の3月に発覚した連合赤軍による山岳ベース事件に続く極左テロ組織の凶行として、日本国民に強く印象に残り、凶行を繰り広げる極左過激派と日本国民との隔絶がさらに広がる事件となった。また、この事件において、武器を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、この事件以降、搭乗時の手荷物検査が世界的に強化されたほか、空港ターミナル内における警備も世界各国で強化されることとなった。

事件は、パレスチナ・ゲリラを始めとするイスラム武装組織の戦術にも大きな影響を与えたと言われる。奥平らが初めから生還の望みがない自殺的攻撃を仕掛けた事はイスラム教の教義で自殺を禁じられていた当時のアラブ人にとっては衝撃的であり、以降のイスラム過激派自爆テロジハードであると解釈するのに影響を与えたとの説もある[26]
日本

事件後、日本政府はイスラエルに特使を派遣、佐藤栄作首相署名の哀悼と支援の意を記した手紙を託し、駐イスラエル日本大使は病院に入院した負傷者を見舞った[24]。岡本の父親も、イスラエルの首相ゴルダ・メイアに謝罪の手紙を送った[24]

日本大使館職員が岡本が日本人であると確認するまで、日本国民は、犯人が日本人という報道を信じることができなかった。 岡本は、大使館職員に対して、イスラエル国民に対して個人的な嫌悪感は何もなかったが、革命戦士としての義務だったと語った。
プエルトリコ

2006年6月、プエルトリコ上院議員ホセ・ガリガ・ピコによる法案が立法議会両院の全会一致で承認され、毎年5月30日をロッド虐殺記念日 (Lod Massacre Remembrance Day)と定めた。 この構想は2006年8月2日にアニバル・アセベド・ビラ知事によって署名され、虐殺35周年にあたる2007年5月30日に正式に設けられた。 記念日の目的は、事件と虐殺された人々と生存者を記憶し、プエルトリコ国民にテロリズムに対抗する教育を行うことである[27][28]。多くの犠牲者の出身国であるプエルトリコでは毎年追悼式が行われている[24]
実行犯・実行犯支援団体の動向詳細は「岡本公三」を参照

実行犯3名のうち唯一生存した岡本公三は、イスラエルの裁判で1972年6月に終身刑となり収監された。岡本は最終意見陳述で、赤軍派の世界同時革命理論や革命戦争の過程における殺戮破壊の不可避性についてのべ、さらに「われわれ三人は死んだあと、オリオンの三つ星になろうと考えていた。殺した人間も何人か星になったと思う。世界戦争(革命戦)でいろんな星がふえると思う。しかし、同じ天上で輝くと思えば心もやすまる」と述べた[29]。弁護人が岡本に犠牲者に対して「アイ・アム・ソーリー(I am sorry)」と言えないのかと聞くと、岡本は黙って首を振った[29]。庄司宏弁護士は、岡本が「済まなかった」と言えなかったことに、本件に対する岡本の苦悩や自責の念が出ているとし、法廷において岡本は、市民殺害に対して終始一貫して、「自分を殺せ」と叫んでいたとしか考えられないと述べている[29]

支援団体によれば、拷問と拘禁生活のために、岡本は統合失調症になった[30]1985年にイスラエル兵とパレスチナ側との捕虜交換で他の1,000人以上の捕虜とともに釈放された[31]


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