テリー・ファンク
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以降、ブル・ラモスパク・ソンミスター・レスリングサイクロン・ネグロカン・フー・リーバック・ロブレイJ・J・ディロンキラー・カール・コックスらを抗争相手に、1975年4月にかけて同王座を通算12回獲得した[6]

1970年7月、日本プロレスに初来日[7]。来日第2戦となる7月28日の横浜文化体育館大会では、アントニオ猪木とのシングルマッチが行われた[8]。2度目の来日時の1971年12月7日、ドリーとのファンク兄弟ジャイアント馬場&猪木のBI砲を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得[9]1972年10月にはブルーノ・サンマルチノフレッド・ブラッシーらと共に、全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加[10]。以降、全日本プロレスのブッカー兼看板外国人選手となって活躍した(後述)。

アメリカではアマリロ地区を主戦場としつつ、1971年8月30日、父シニアとのタッグでニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンに初出場、アル・コステロ&ドン・ケントファビュラス・カンガルーズと対戦した[11]。1972年7月1日の再出場時には、同じくシニアとのコンビでキング・カーティス・イヤウケア&クレージー・ルーク・グラハムと対戦している[12]

1973年2月10日、ミズーリ州セントルイスキール・オーディトリアムにおいて、ジョニー・バレンタインからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取[13]1975年12月10日にはフロリダ州マイアミにて、ジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった[14]。以降、1976年1月1日には後に流血の大抗争を展開することになるアブドーラ・ザ・ブッチャー、1月6日にはビル・ロビンソン、3月30日にはアンドレ・ザ・ジャイアントを相手に王座を防衛[15]。日本では6月11日、蔵前国技館ジャンボ鶴田の挑戦を退ける[15]。その後も各地で防衛戦を続けたが[15][16]1977年2月6日、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座から陥落した[14]


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