テリー・ギリアム
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物理学を専攻するが、ファインアートへと専攻を切り替え、最終的には政治学専攻に変更することとなる。学生運営雑誌『ファング』(Fang)の作業を受け持ち、3年生の時は編集者として参加。誌面傾向を『MAD』の編集者ハーヴェイ・カーツマンのトリビュートとしていく。また、この雑誌のコピーをカーツマンに送っている。卒業後、広告代理店に就職するが長くは続かず、カーツマンの誘いにより雑誌『ヘルプ!』(Help!)の編集者に転職する。
渡英1985年撮影。

テリーはコミック・ストリップ作家、アニメーターとしての仕事を始める。後にモンティ・パイソンで仲間となるジョン・クリーズを写真コミック・ストリップ作品として特集し、『ヘルプ!』誌上にて掲載している。その後の1960年代半ば、イギリスへ渡りフリーのイラストレーターとしてロンドンで雑誌の仕事をする。また、知人となっていたジョン・クリーズの紹介で子供向け番組『ドゥ・ノット・アジャスト・ユア・セット』(Do Not Adjust Your Set)に参加、アニメーションを製作する。この番組で、後にモンティ・パイソンで仲間となるエリック・アイドルマイケル・ペイリンテリー・ジョーンズと出会っている。

モンティ・パイソン内では唯一の英国人以外のメンバーとして、BBCの製作番組『空飛ぶモンティ・パイソン』に参加する。ここで、アニメーションを担当し、シュールなアニメーションを製作。このアニメーションはしばしば、番組内のスケッチにリンクし、モンティパイソン内におけるヴィジュアル・ランゲージの一つとして機能した。また、いくつかのスケッチには脇役として出演もしている。

モンティ・パイソンにおけるテリーのアニメーションには独自の様式がある。古い写真(ほとんどはヴィクトリア朝のもの)を背景に、自分が描いたイラストと写真から切り抜いたモチーフとを動かすというものである。この手法は、アニメーションやフラッシュアニメ作品などの多くの場所において模倣されている。テリーのアニメーションは「ギリアメーション」(Gilliamations)と呼ばれる。

その後、映画監督としての仕事を始め、主な活動をこれに移して行く。映画監督としての初めての仕事は、1975年製作の『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』であるが、これはテリー・ジョーンズとの共同監督であった。1977年、初の単独監督作『ジャバーウォッキー』を監督。その後、多くの映画作品の監督を務める。カンヌ国際映画祭(2001年)にて。

未来世紀ブラジル』は米国内では改竄されたヴァージョンが公開され、配給のユニバーサルとの闘争が展開。第58回アカデミー賞では、その独特の世界観が評価され、脚本賞美術賞にノミネートされるも興行的には失敗を喫し、次作『バロン』ではプロデューサーの杜撰な製作管理によって予算が膨れ上がり、当初のヴィジョンが反映されなかった上興業的にも製作費回収には程遠い成績に終わった。この体験で「映画作りが嫌になった」と語っている。

しかし、その次に製作した『フィッシャー・キング』ではマーセデス・ルールがアカデミー助演女優賞を、作品自体もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞している。

2002年、ナイキワールドカップキャンペーンの一環であるテレビCM「シークレット・トーナメント」(The Secret Tournament)の監督を務めた。これは、世界のベスト・プレーヤーたちが巨大なタンカーの中で3対3で戦うという内容で、BGMにはエルヴィス・プレスリーの「おしゃべりはやめて」が使われた。このCMは高い人気を集め、批評家からも絶賛された。
私生活

イギリスのメイクアップアーティストおよび衣装デザイナーであるマギー・ウェストンと1973年に結婚。2女1男の3人の子供に恵まれ、彼らはギリアムの映画の中にたびたび登場している。
その他

進行中のプロジェクトがいくつかあるが、
ニール・ゲイマンテリー・プラチェットのファンタジー小説『Good Omens』の映画化もそのひとつ。

1990年代半ば、Charles McKeownと共に『バンデットQ』の続編の脚本を執筆したが、本編の俳優たちの何人かが亡くなったためプロジェクトは実現しなかった。


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