テューリンゲン州_(1920年-1952年)
[Wikipedia|▼Menu]
州都はヴァイマルに置かれたが、最大の都市はゲーラであった。
紋章

テューリンゲン州の紋章は、1921年4月7日に州議会で定められた[1]。赤地に銀色の星が7つ描かれているが、これは 1920年に合邦した7州を表している。

1933年にナチ党政権はこの紋章はユダヤ人の象徴であるダビデの星を連想させるとして変更させた。ナチ党がアルテンブルクの画家エルンスト・ミュラー=グレーフェにデザインさせた紋章は、中央にテューリンゲン方伯の紋章である「ブンデンレーヴェン (赤と銀の縞模様に塗り分けられたライオン)」にハーケンクロイツを持たせたものを配し、左上にはエルネスティン系ザクセン公家の「横縞にラウテンクランツ (上部に葉花冠をあしらった飾り帯)」、右上にシュヴァルツブルク侯家の「」、左下にロイス侯家のライオン、右下にフランケン大公ヘンネベルク家の「雌鶏」 を配したもので、元の紋章の要素として残ったのはインエスカッシャンの盾の形だけだった。この紋章は1933年から1945年まで使用されたが、あまりに動物が多く出てくるために「テューリンゲン動物園 (“Thuringer Tiergarten“)」と揶揄されることもあった。

第二次世界大戦が終結すると、州の紋章は「赤字に金色のライオンと8つの星」に改められた。8つめの星はプロイセン自由州ザクセン県から編入された地域を示している。この8つの星は、テューリンゲン地方の統合の象徴として、現在のテューリンゲン自由州の紋章にも引き継がれている。
成立

テューリンゲン諸邦では、1918年の末頃には早くもプロイセン領内を含むテューリンゲン地方を統一すべく交渉が持たれていた。しかしプロイセン自由州は領土変更を受け入れなかったため、1919年にいわゆる「小テューリンゲン主義」による解決を図る方針となった。

合邦交渉において、ザクセン=マイニンゲン自由州とコーブルク自由州は合邦に参加することに懸念を示した。レンシュタイクより南のフランケン地方北部は言語的にフランケン地方南部との繋がりが強固なうえ、1803年の帝国代表者会議主要決議バイエルン選帝侯領に組み込まれた土地だったからである。しかし、ザクセン=マイニンゲン自由州の懸念は、ゾンネベルク地区およびゾンネベルク商工会議所の存在保証を行うことで解消された。一方、コーブルク自由州は1919年11月30日に実施した住民投票でテューリンゲン州への参加反対に88%もの票が集まり、1920年7月1日にバイエルン自由州に合邦することになった。

1920年4月30日制定の統合法 (RGBl. I S. 841) でコーブルク自由州を除く7州での合邦が決定し、翌5月1日に州都をヴァイマルとする総面積11,763平方キロメートルのテューリンゲン州が成立した。1921年3月11日に制定されたテューリンゲン州憲法と、1919年の合邦規約は、いずれもドイツ民主党イェーナ支部代表であったエデュアルト・ローゼンタールが起草したものである。
1920年から1933年までヴァイマルの旧国会議事堂

テューリンゲンでも、ヴァイマル共和政期は政治的混乱の時代であった。1923年10月、ドイツ社会民主党のアウグスト・フレーリヒは共産党との連立政権を発足させた。しかし、この「労働者政権」は共産党が暴力革命を企図していたことが露見するとヴァイマル共和国軍の介入に遭い、解散に追い込まれた。

1930年1月には、後にドイツ国内相となるヴィルヘルム・フリックが州内相兼教育相として入閣した。これは地方政府へのナチ党員の初入閣であった。フリックは1931年4月まで同職を務めた。さらに1932年にはテューリンゲン大管区指導者フリッツ・ザウケルが州首相に就任した。

テューリンゲン州では、州首相が元首であった。1920年から1945年までの州首相は以下のとおりである。

1920-1921年:アルノルト・パウルセン(ドイツ語版) (民主党

1921-1924年:アウグスト・フレーリヒ(ドイツ語版) (社会民主党

1924-1928年:リヒャルト・ロイトホイサー(ドイツ語版) (人民党

1928-1930年:アルノルト・パウルセン (民主党)

1930-1932年:エルヴィン・バウム(ドイツ語版) (農民同盟(ドイツ語版))

1932-1933年:フリッツ・ザウケルナチ党

1933-1945年:ヴィリー・マルシュラー(ドイツ語版) (ナチ党)

1933年から1945年までナチ党が新たに指定した州の紋章

1933年にアドルフ・ヒトラー権力を掌握すると、強制的同一化により各州の自治権は奪われていった。ヴァイマル郡のノーラとバート・ズルツァには、反ナチ党分子を収容するための保護拘禁収容所が設けられた。ナチ党はさまざまな暴力機構を用いて反党分子を弾圧したが、反ナチ運動が収まることはなかった。州首相フリッツ・ザウケルはテューリンゲンの国家代理官に就任し、ヴィリー・マルシュラーが後任の州首相となった。1934年1月30日のライヒ改造法により、テューリンゲン州は自治権を完全に失い、州都ヴァイマルはナチ党のテューリンゲン大管区の管区都となった。また、テューリンゲン州政府庁舎はナチ党に接収された。元々ナチ党の大管区は党地方組織として国会の選挙区割に合わせて設けられていたため、テューリンゲン大管区の範囲にはエアフルトやシュマルカルデンも含まれていた。1937年にはヴァイマルの近くにブーヘンヴァルト強制収容所、1943年にはノルトハウゼンにミッテルバウ=ドーラ強制収容所が作られた。

第二次世界大戦中、テューリンゲン州はドイツの他の地域に比べると空襲の被害は小さかったが、工廠を併設していたミッテルバウ=ドーラ強制収容所に近いノルトハウゼンはほぼ完全に破壊された。この他、イェーナゲーラも大きな被害を受けた。エアフルトは市街の約10%が破壊された。
1945年までの管理
人口と行政区分

テューリンゲン州には、1922年9月の時点で91独立市と2013市町村、93無行政地区を擁していた (無行政地区のほとんどはマイニンゲン郡にあった)[2]。人口10万人を越えるような大都市はなく、数万人程度の中規模都市が22あった。ゲーラは州で最大の都市であったが、旧諸邦で最大だったザクセン=ヴァイマル=アイゼナハの首都で州第3位の都市ヴァイマルが州都となった。現在のテューリンゲン州州都であるエアフルトなどの大都市は当時プロイセン自由州ザクセン県に含まれており、テューリンゲン州には属していなかった。

都市面積
(平方キロメートル)人口
(国勢調査結果)
1925年1933年1939年
ゲーラ47.528140283,77581,931
イェーナ47.1752,64958,35768,377
ヴァイマル37.6945,95749,32765,916
ゴータ48.6945,78047,84851,995
アイゼナハ24.5543,38544,69550,464
アルテンブルク17,2342,57043,73644,338
グライツ44.1837,49039,90338,933
アポルダ16,6625,70327,83427,936
アルンシュタット26.9321,69322,02422,619
ゾンネベルク12.9219,15720,08320,204
マイニンゲン31.9318,22118,83319,796
ザールフェルト24.6317,96019,14821,980
ルードルシュタット16,7215,71116,86318,222
ペスネック147.8214,62515,71216,045
ツェラ=メーリス26,8014,42314,10016,363
イルメナウ10.7513,61214,25816,306
シュメルン16.5713,47513,92813,020
モイゼルヴィッツ10.6911,57111,05010,660
アイゼンベルク14,9211,31711,37111,103
ツォイレンローダ14,5011,04712,24712,481
ヴァイダ12.5410,04011,04011,150
ゾンダースハウゼン17.349,97810,67710,907

1922年10月に地方行政改革が実施され、10都市 (Stadtkreis) と16郡 (Landkreis、カンブルク地区を含む) となり、郡の区割りは郡裁判所の管轄範囲に合わせて定められた。人口は1925年6月16日に行われたテューリンゲン州初の国勢調査による数字である[3]

市/郡下位市町村の数人口
(1925年6月16日付)旧区分下位市町村の数人口
アルテンブルク市142.570アルテンブルク12580,738
アルテンブルク郡19095,547


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef