テネシー州
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18世紀の開拓者の大多数はイギリス人かその子孫だったが、20%近くはスコットランド・アイルランド系だった[14]。これら開拓者はチェロキー族から借りた土地に建設した地域社会、ワトーガ同盟を結成した。

アメリカ独立戦争の1776年、シカモア・ショールズ(現在のエリザベストン)にあったワトーガ砦が、イギリスのロイヤリストと同盟したチェロキー族の酋長ドラッギングカヌーとその戦士集団に攻撃された。これら反抗するチェロキー族のことを開拓者達は「チカマウガ」と呼んでいた。彼等はノースカロライナ州によるワシントン地区の併合と、さらに北と西でのトランシルベニア・コロニーへの入植に反対していた。ドラッギングカヌーの従姉妹ナンシー・ウォードからの警告により、開拓者の多くの命が戦士による最初の攻撃から救われた。このワトーガ川岸にあったフロンティアの砦は、1780年にオーバーマウンテンメンがアパラチア山脈を越えて遠征する準備地点となり、後にはノースカロライナ州でのキングスマウンテンの戦いでイギリス軍と対戦し、これを破った。

1784年、ワシントン地区の3郡(現在はテネシー州の一部)がノースカロライナ州から分離し、フランクリン州を結成した。連合規約下のアメリカ合衆国に加盟する試みは失敗し、1789年にはノースカロライナ州に復帰した。1790年、アメリカ合衆国政府が南西部領土を組織化し、ノースカロライナ州はこの地域を合衆国政府に譲渡した。新しい領土に入ってくる開拓者を奨励するために、1787年、母州であるノースカロライナ州が、クリンチ山の南端(東テネシー)からフレンチリック(ナッシュビル)まで、開拓者がカンバーランド開拓地に入るための道路を切り開かせた。この道は「ノースカロライナ道路」あるいは「アベリーの道」と呼ばれ、「荒野の道」と呼ばれることもあった。
州昇格(1796年)

テネシーは1796年6月1日に合衆国16番目の州として昇格した。アメリカ合衆国政府の管轄下にあった領土では最初に作られた州だった。建国時の13植民地に加えて、テネシー州の前にはバーモント州ケンタッキー州が作られており、そのどちらも合衆国政府の領土ではなかった[15]。テネシー州憲法第1条第31項に拠れば、テネシー州の領域はストーン山の最高点を通る線とバージニア州との州境が交わる地点に始まり、テネシーとノースカロライナ州を分けるアパラチア山脈の基本的に山頂を結ぶ線を辿り、インディアンのコウィーとチョタの町を過ぎ、そこからユニコイ山の主尾根を辿って南側境界に至る。こうして引かれた線より西にある全ての領土、土地と水域は、新設テネシー州の領域に含まれるとなっている。この規程の一部では、州の領域と管轄権が将来獲得する土地に及ぶことになっており、他州との交換で獲得する土地、あるいはミシシッピ川より西で獲得する可能性のある土地に言及していた。

マーティン・ヴァン・ビューレン大統領政権の時に、17,000人に近いチェロキー族と、その所有する約2,000人の黒人奴隷が1838年から1839年に掛けてその故郷を追われ、アメリカ陸軍の護衛で東テネシーの「移民の停車駅」(カス砦など)から、アーカンソー州の西にあるインディアン準州の地に行進させられた[16]。この移動中に推計4,000人のチェロキー族が死んだ[17]。この旅はチェロキー語で「Nunna daul Isunyi」すなわち「我々が泣いた道」と呼ばれた。アメリカ合衆国政府によるインディアン強制移住の結果としてチェロキー族のみならず多くの部族が移住を強いられ、特に「文明化五部族」が耐えた同様の行進は「涙の道」と呼ばれた。この言葉はチョクトー族の移住を表現するものとして始まった。
南北戦争とレコンストラクション

1861年2月、アイシャム・ハリス知事に率いられたテネシー州政府の分離主義者達が、アメリカ合衆国との結びつきを断ち切るための会議について有権者の承認を求めたが、州民投票では反対56%対賛成46%で否決された。脱退への反対が強かったのは東テネシーだった(後には北軍と同盟する州設立の動きがあった)。4月にサムター要塞への攻撃が起きた後、これに反応したリンカーンがテネシー州など諸州に軍隊の立ち上げを要求したことで、ハリス知事は軍隊の動員を始め、議会には脱退条例案を提出し、アメリカ連合国政府とは直接予備交渉を行った。1861年5月7日、テネシー州議会はアメリカ連合国と軍事同盟を結ぶ協定書を批准した。同年6月8日、中部テネシーの住民が著しく考え方を変えたことで、州民投票により脱退を決めた。テネシー州は脱退を決めたことでは最後の州になった。

南北戦争中に州内では大きな戦いが続き、その大半で北軍が勝った。1862年2月、ユリシーズ・グラント将軍とアメリカ海軍がカンバーランド川とテネシー川を掌握した。4月のシャイローの戦い南軍の反撃を撃退した。6月にメンフィス市前のミシシッピ川で海戦があり、メンフィス市が陥落した。メンフィス市とナッシュビル市が落ちたことでテネシー州の西部と中部は北軍が支配した。1863年1月初旬、マーフリーズボロの戦いとその後のタラホーマ方面作戦で、北軍の支配は確固としたものになった。フランクリンの戦い、1864年11月30日

東テネシーは、極端に南軍寄りのサリバン郡を除いて北軍寄りの感情が強かったが、南軍はここを支配していた。1863年初秋のチャタヌーガ方面作戦では南軍がチャタヌーガ市を包囲したが、11月にはグラント軍に駆逐された。南軍の敗北の多くは、ペリービルの戦いからチャタヌーガまで南軍のテネシー軍を率いたブラクストン・ブラッグ将軍のお粗末な戦略眼に帰することができる。

テネシー州での最後の大きな戦闘は、1864年11月に南軍が中部テネシーに侵略した時であり、フランクリンの戦いで阻止され、12月のナッシュビルの戦いで北軍ジョージ・ヘンリー・トーマス将軍の前に完全に潰えた。一方、エイブラハム・リンカーン大統領から文民のアンドリュー・ジョンソンがテネシー州軍政府長官に指名された。


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