テネシー州
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インディアン  0.3%
混血  1.7%

州名の由来モンロー郡のタナシ遺跡近くにある記念碑

テネシーとなった名前の変化形が最初に記録されたのは、1567年、スペインの探検家フアン・パルドがその探検隊員と共に、サウスカロライナから内陸に移動中に、「タナスキ」("Tanasqui")と呼ばれるインディアンの集落を通過したときだった。18世紀初期、イギリス人交易業者が現在のモンロー郡で「タナシ」("Tanasi"あるいは"Tanase")というチェロキー族の町に出くわした。この町は同名の川[注 2] 沿いにあり、1725年には既に地図に掲載された。フアン・パルドが遭遇した町と同じかどうかは不明であるが、最近の研究では、パルドの「タナスキ」はピジョン川とフレンチブロード川合流点、現在のニューポート市近くにあったとされている[7]

テネシーという言葉の意味と語源は不明である。ユチ語の初期形態をチェロキー語で修正したとする説がある。意味としては「集会の場所」、「曲がりくねった川」、「大きな屈曲部の川」など諸説ある[8][9]。人類学者のジェームズ・ムーニーに拠れば、「解析不可能」であり、その意味は失われたとなっている[10]

現在の綴りTennesseeの始まりは、サウスカロライナ植民地総督ジェイムズ・グレンに帰されている。1750年代には公式書簡でこの綴りを使っていた。1765年に出版されたヘンリー・ティンバーレイクの『チェロキーの国の概要』で使われて一般化された。1788年、ノースカロライナ州は現在のテネシー州中部では3番目の郡としてテネシー郡を創設した。このテネシー郡は現在のモンゴメリー郡ロバートソン郡の前身である。1796年に南西部領土から新州を組織化するために憲法制定会議が招集されたとき、州名としてTennesseeを採用した。
ニックネーム

テネシー州は「志願兵の州 Volunteer State」というニックネームがある。これは米英戦争のとき、特に1815年のニューオーリンズの戦いで、テネシー州の志願兵が傑出した働きをしたことから名付けられた[11]
歴史詳細は「南西部領土 (アメリカ合衆国)」および「テネシー州の歴史」を参照
初期の歴史ミシシッピ文化の貝細工、サムナー郡のカスタリアンスプリングスで出土ラウドン砦の再現物、州内で最初のイギリス人による開拓地

現在テネシー州となっている地域には12,000年前からパレオ・インディアンが住んでいた[12]。パレオ・インディアンが入ってから、ヨーロッパ人による接触が起こった時までに、この地域に住んだ部族の名前は明らかでないが、考古学者が名付けた古代(紀元前8000年-同1000年)、ウッドランド期(紀元前1000年-紀元後1000年)、ミシシッピ文化(1000年-1600年)など幾つかの時代区分がある。ミシシッピ文化の支配者がテネシー川流域に住んだマスコギー族の文化的祖先とされ、その後にテネシー川水源地域にチェロキー族が移住してきた。

テネシー州となった領域へのヨーロッパ人による遠征として記録されている初期のものは、1540年のエルナンド・デ・ソト、1559年のトリスタン・デ・ルナ、1567年のフアン・パルドといったスペイン人探検家に率いられたものがある。パルドはインディアンの集落名から「タナスキ」という言葉を記録し、それが現在の州名になった可能性がある。当時のテネシーにはマスコギー族やユチ族が住んでいた。ヨーロッパ人が伝えることになった伝染病によってインディアン人口が激減した可能性があり、この地域は人が住まなくなった。北部でヨーロッパ人による開拓地が広がり、チェロキー族はバージニアと呼ばれていた南部から移ってきた。ヨーロッパ人開拓者が地域に広がってくると、マスコギー族、ユチ族、チカソー族、チョクトー族などのインディアンは南や西に追い出された。

テネシーで最初のイギリス人による開拓地は、現在のボノア近くにできたラウドン砦だった。当時は最も西にできたイギリスの前線基地だった。砦の設計はブラムのジョン・ウィリアム・ジェラードが行い、イギリス軍のレイモンド・デメア大尉が建設させた。砦が完成すると、デメア大尉は1757年8月14日に弟のポール・デメア大尉に砦の指揮を任せた。イギリス軍と近くに住む山岳部チェロキー族との間に敵対関係が生じ、ラウドン砦は包囲されて、1760年8月7日に降伏した。翌朝、ポール・デメア大尉とその多くの部下は待ち伏せにあって殺され、守備兵の残りの大半は捕虜になった[13]

1760年代、バージニアの長距離を歩く狩猟者達がテネシーの東部や中部を探検し、この年代後半には最初のヨーロッパ人開拓者が地域に入ってくるようになった。18世紀の開拓者の大多数はイギリス人かその子孫だったが、20%近くはスコットランド・アイルランド系だった[14]。これら開拓者はチェロキー族から借りた土地に建設した地域社会、ワトーガ同盟を結成した。

アメリカ独立戦争の1776年、シカモア・ショールズ(現在のエリザベストン)にあったワトーガ砦が、イギリスのロイヤリストと同盟したチェロキー族の酋長ドラッギングカヌーとその戦士集団に攻撃された。これら反抗するチェロキー族のことを開拓者達は「チカマウガ」と呼んでいた。彼等はノースカロライナ州によるワシントン地区の併合と、さらに北と西でのトランシルベニア・コロニーへの入植に反対していた。ドラッギングカヌーの従姉妹ナンシー・ウォードからの警告により、開拓者の多くの命が戦士による最初の攻撃から救われた。このワトーガ川岸にあったフロンティアの砦は、1780年にオーバーマウンテンメンがアパラチア山脈を越えて遠征する準備地点となり、後にはノースカロライナ州でのキングスマウンテンの戦いでイギリス軍と対戦し、これを破った。


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