テッサロニキ
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他の言語ではテッサロニキの歴史の中で古代教会スラヴ語ではソルン(Солоунь, Soloun)、ラディーノ語ではサロニカ(Salonika)、トルコ語ではセラーニクやセラニキ(Selanik, Selanik)、オスマン語ではセラーニク(??????)、南スラヴ語群ではソルン(Солун)やロシア語ではサロニキ(Салоники, Saloniki)、アルーマニア語ではサルーナ(Saruna)などがある。テッサロニキの地元の発音の仕方では典型的なギリシア語のマケドニア方言の特徴でLの響きが重く深い感じになる[13][14]。都市名はよく省略されテス(Θεσ/ν?κη)と書かれることもある。
歴史「en:History of Thessaloniki」も参照
古代からローマ時代まで

テッサロニキはカッサンドロスにより紀元前315年頃に創建された[15]。カッサンドロスは妻のテッサロニカの名にちなみ、テッサロニケーと名付け[16]たが、テッサロニカはアレクサンドロス大王の異母妹でマケドニアの王妃でピリッポス2世の娘である。マケドニア王国支配下のテッサロニキは徐々に都市としての重要性が高まっていった[16]

マケドニア王国が紀元前168年に倒れると、テッサロニキは共和政ローマ自由都市(英語版)となり[16]ディラキウムビュザンティオンを結ぶ[17] エグナティア街道に面した交易の要衝となり[18]、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された[19]。テッサロニキはまたバルカン半島を南北に大モラヴァ川やアクシオス川に沿って走る街道の南端でギリシャとバルカンの諸都市を結んでいた[20]。テッサロニキは後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり[18] 、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。ローマ帝国にあったテッサロニキはキリスト教の拡大の中心として重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。

ローマ帝国がテトラルキアにより分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された帝国のうちガレリウスが統治する領域の首府となり[21][22]、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場 (en) 、ガレリウスの凱旋門ロトンダなどの建設を命じた[22][23][24]

379年、ローマのイリュリア県 (en) は東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュリア県の首府となった[18]390年ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。)476年に西ローマ帝国が倒れると (en) とテッサロニキは東ローマ帝国の中では2番目に大きな都市となる。
中世・東ローマ時代ホワイトタワーテッサロニキ王国」も参照

東ローマ帝国の初期、テッサロニキはコンスタンティノープルに次いで2番目に大きな都市であったと考えられ[25][26][27]、その地位は1423年にヴェネツィア共和国の支配に代わるまで保っていた。14世紀のテッサロニキの人口は100,000人程度で[28][29]、当時のロンドンを凌いでいた[30]

6世紀から7世紀にかけテッサロニキ周辺ではアヴァールスラヴ人が侵入し、テッサロニキを幾度も包囲したがいずれも失敗している[31]。これまでの歴史的な 文献では多くのスラヴ人がテッサロニキの後背地に居住したとされるが[32]、この移住は実際にはこれまで考えられてきたものより小規模なものである[32][32][33]

9世紀になるとテッサロニキ出身のキュリロスメトディオスによりスラヴ人にとっては最初の文字であるグラゴル文字が考案された。古代教会スラヴ語は当時、このテッサロニキなどマケドニア地方で話されていたスラヴ人の言葉を基にしているとされている[34][35][36][37][38]

904年にアラブの侵入によって短い間、テッサロニキは攻略された(en:Sack of Thessalonica (904))[39]。テッサロニキは12世紀のコムネノス王朝期にも経済成長は継続し、東ローマは北へと支配を広げた。1204年に第4回十字軍によりコンスタンティノープルが包囲 (en) された時、テッサロニキは東ローマの支配を離れ[40] ラテン帝国の最大の隷属国となった。1224年、テッサロニキ王国は東ローマの亡命政権であるテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスエピロス専制侯国により侵略された。テオドロス1世は自ら皇帝と称し[41] その首都となった[41][42]。この時代のエピロス専制国はテッサロニカ帝国としても知られていた[41][43][44]。1230年にクロコトニッツァの戦いで打ち負かされると[41][45]、エピロス専制侯国は1246年に再び力が回復するまで第二次ブルガリア帝国属国で、この時ニカイア帝国であった[41]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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