トフラーの造語である「テクノレベルズ」とは、日本語に訳すなら「技術に対する反逆者たち」となる。作中でトフラーは、産業革命以降の重厚長大型の大企業が世界を動かす仕組みを第二の波とし、それを超えていく新しい技術革新の流れを第三の波と規定した。その上で、次々と生まれる革新的かつ時に人類にとって危険ともなりうる新しい技術を野放しにせず、それに対しての管理を主張し使いこなす人々のことを「第三の波の代理人」にして「次の文明の先導者」と呼び、ある意味で逆説的にも聞こえる「技術に対する反逆者たち」と名づけた[30]。
一方で、世界で初めてテクノと言う単語を電子音楽に当てはめたのは、クラフトワークらが活躍していた1978年に、日本の阿木譲が名付け親になったとする説もある[31]。阿木が命名したのは「テクノポップ」 (Techno Pop) だが、ホアン・アトキンスが初めて"Techno"という言葉を自曲に使用したのは、阿木の命名から6年後、イエロー・マジック・オーケストラの「テクノポリス」 (Technopolis) から5年後にあたる、Cybotron名義の1984年のシングル「Techno City」である[32]。 1993年、日本人アーティストのケン・イシイが学生時代に制作したデモテープがベルギーの有力なレーベルR&Sに採用される。彼による1993年の「Pneuma」や1995年の「EXTRA」はヨーロッパの音楽雑誌のヒットチャートにも登場し、日本発の初めてのテクノの成功者と言える。また1993年から1995年にかけて、日本国内でもテクノやいわゆるIDMのレーベル活動が始まった。代表的なレーベルとしてサブライム・レコーズ(Sublime Records)、フロッグマン・レコーズ[33](Frogman Rrecords)、サブボイス(Subvoice)、とれまレコード(TOREMA RECORDS)、サイジジー・レコーズ(Syzygy Records)などが挙げられる。1994年、それに答えるかのように大手レコード会社のソニー・ミュージック(Sony Music Entertainment (Japan) Inc.)から「ソニーテクノ」と名づけられたプロジェクトによりヨーロッパのテクノのレーベルの音源のライセンスが獲得され国内で販売された。翌年の1995年、今度は出版界からテクノ専門雑誌「ele-king」という雑誌も発行された。ソニーテクノ、ele-king共に1990年代末には終息している。デトロイト・テクノ第二世代のジェフ・ミルズが東京在住な事もあり、オーケストレーションでのテクノブームも起こりつつある。この活動へのメッセージで坂本龍一が「彼の試みは興味深い」とコメントしている。 デトロイト・テクノ 第1世代(ビルヴィレ・スリー) 第2世代 ミニマル・テクノ アンビエント・テクノ ハードコアテクノ 日本のテクノ その他のテクノ
日本のテクノ・シーン
主なテクノ・アーティスト
ホアン・アトキンス(Cybotron、Model500)
デリック・メイ(Rhythim Is Rhythim)
ケビン・サンダーソン(インナー・シティ)
アンダーグラウンド・レジスタンス
マイク・バンクス
カール・クレイグ
ムーディーマン
ジェフ・ミルズ
リッチー・ホゥティン
リカルド・ヴィラロボス
ベーシック・チャンネル
ロバート・フッド
エイフェックス・ツイン
オウテカ
LFO
ボーズ・オブ・カナダ
オービタル
ブラックドッグ
B12
マーク・トローネ
藤川祥虎 (UKハードコアテクノ)
電気グルーヴ
石野卓球
ケン・イシイ
田中フミヤ
Q'HEY
DJ WADA
金森達也(DJ SHUFFLEMASTER)
Subvoice
トビーネイション
砂原良徳
CMJK
KAGAMI
DJ TASAKA
MAYURI
シン・ニシムラ
Newdeal
DJ SODEYAMA
Co-Fusion
タンツムジーク
RIOW ARAI
ローラン・ガルニエ
ジョイ・ベルトラム
マイク・ヴァン・ダイク
CJボーランド
ハードフロア
テクネイジア
DJ Hell
ルーク・スレーター
トーマス・シューマッハ
エレン・エイリアン
フルーク
パン・ソニック
ア・ガイ・コールド・ジェラルド
ポール・ヴァン・ダイク
ダン・カーティン
ダレン・エマーソン
アンダーワールド
ケミカル・ブラザーズ
プロディジー
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 日本では元々クラブミュージックに親しみがなかったため1978年から2000年初期の日本国内において、主に海外や国内のシンセサイザーを取り入れた音楽全般を「テクノ」とまとめて呼ぶムーブメントがあった。
出典^ 美馬 2004, p. 14
^ ブルースター & ブロートン 2003, pp. 457?458, 471?472