テクノ_(ダンスミュージック)
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1980年代前半から中盤にかけ、シカゴに隣接する都市であり、同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでもシカゴとデトロイトを行き来する人々によりこのシカゴ・ハウスが持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてくる[9][10]。この音楽成立に関わった主なアーティストとしては、同じ学校に通っていた音楽仲間でありDJ集団も組んでいたホアン・アトキンスデリック・メイケヴィン・サンダーソン[11]らの、いわゆる「ビルヴィレ・スリー」(3人の出会った場所が地元デトロイトのビルヴィレ地区であったため名づけられた)が挙げられる。彼らの音楽はシカゴ・ハウスの影響を受けつつも、従来のハウス・ミュージックが持つ享楽性に対し厳しい現実を反映したシリアスな音楽を志向し[12]、音楽雑誌の取材時にはより政治的・思想的な側面を打ち出していた。特に第一人者であるホアン・アトキンスはその時すでにエレクトロのユニットの活動を通して一定の名声を得ており、テクノロジーの上では電子的な音のギミックやベースラインを、思想としてアフロ・フューチャリズムと呼ばれる黒人特有のSF・未来志向を強調していた[13]

ハウス・ミュージックに触れる以前のデトロイトの音楽的環境については、デトロイトには基本的にクラブのシーンがなかったので、人々が音楽に触れることの多くは地元の著名なラジオDJ、エレクトリファイン・モジョによるラジオのプログラムを通じてであった。デトロイトにおいて電子音楽の影響が見られるのは、彼独特のセンスで選んだヨーロッパの電子楽器を使った音楽を好んで流していたためとされる[14][15]

アメリカのハウス・ミュージックの流れとは全く異なり、1978年から1980年初頭、ドイツを中心とした リエゾン・ダンジェルーズ、The Normal、DAFなど、黒人音楽特有のグルーブ感が全くない、いわゆるテクノ・ミュージックが誕生した。
転機

1988年、やがて彼らが作っていたデトロイト発のレコードのヒットに目をつけたイギリスのヴァージン・レコードにより、その傘下から編集盤アルバムが発売されることとなり、広報の一環としてイギリスの雑誌『ザ・フェイス』内でデトロイトの特集記事が組まれた。取材の中でインタビュアーが「あなた方の音楽をどう呼んだらいいのか」と問い掛け、それに対しホアン・アトキンスが「おれたちはテクノと呼んでいる」と答える。アルバムにはインタビューの内容と同期するタイトルがつけられ、「テクノ! ザ・ニュー・ダンス・サウンド・オブ・デトロイト」(英:Techno! - The New Dance Sound Of Detroit)は発売された[16][17][18]。このアルバムはヒットし、さらにシングル盤として分けられたインナー・シティの「ビッグ・ファン」(英:Big Fun)はイギリスのダンスチャートのトップ10にランクインし、全世界で600万枚の大ヒットを記録した[19]。ここに現在一般に呼ばれる「テクノ」の名称が成立した。
勃興期

1988年?1991年にかけてイギリス北部でセカンド・サマー・オブ・ラヴと名づけられたドラッグアシッド・ハウスが結びついたムーヴメントが発生する[20]。その際シカゴ産のアシッド・ハウスの流行とともにデトロイト産のテクノも渾然一体となりイギリスへと流れ込み、ムーヴメントの初期から使われていた。この流れはイギリスからヨーロッパ全土へと徐々に拡大して行き、激しいスタイルを持った4つ打ちの音楽はそれぞれの地において地元の文化と融合し(ハードコア、ジャーマントランス、ガバ)、またはトランスなどの新たな音楽も生まれた[21][22]。少しずれるがイギリスでは1990年代に入ると大規模なレイヴの頻発とその要望により、主に大げさな音色と速めのブレイクビーツを使った音楽も生まれている。こうして1990年代初期にはテクノはヨーロッパで刺激的な音を持つ先鋭的なダンスミュージックというイメージとともに定着していった。テクノはこの様な発展の経緯により、発祥の国アメリカではアンダーグラウンドな音楽のままにおかれ[23]、むしろヨーロッパの国々に広く親しまれているといった状況にある。
現在への流れ

上記のようにそもそもテクノはシカゴ・ハウスの影響を通じて生まれてきた。もともとハウス・ミュージックにはあまり存在していなかった電子音[24]を押し出していたホアン・アトキンスの一連の作品を除いては、音楽的にハウス・ミュージックの範疇から外れることはなかったといわれる。それが区別されるようになったのは、なによりイギリスのレコード会社と契約した後のマーケティング戦略の力であった[25]。しかし現在、テクノとハウス・ミュージックとを音で比較した場合、テクノと呼ばれる音楽のほうがより速くハードに聴こえる。これはこの音楽が広くテクノと呼ばれるようになった1988年以降の出来事によるものである。

1989年に、テクノ・ラップ・ユニットのテクノトロニックが「Pump Up The Jam」を発売すると世界中で大ヒットした。このヒットでニュービートの影響下にあるベルギーのテクノが世界中に知れ渡ることになった。これ以降、ベルギーはテクノで有名となった。

1990年、ヨーロッパでレイヴが続いていたころ、より刺激的な音を持つテクノとみなされたレコード、代表的なところではニューヨークのジョーイ・ベルトラムによる「エナジー・フラッシュ」(英:Energy Flash)やアンダーグラウンド・レジスタンス(UR)の作品などが続けざまに発売されヨーロッパへ流れ込み大きな衝撃を持って迎えられた[26]。今、一般にテクノと言われる音が方向付けられたのはこのあたりであるとされている。

1992年、こうしたいわゆるヨーロッパのレイヴ後に登場したテクノの特徴をさらに推し進めたものとしてハード・ミニマルがある。その代表的なアーティストとしてはダニエル・ベルやジェフ・ミルズの名が挙げられる。ミルズもまた他のデトロイトのアーティストと同じくヨーロッパにDJのため回っていた一人であり、ハードテクノでヨーロッパに影響を与えていたURの元一員でもあった。「それまでほとんどミニマルと呼ばれる音楽は聴いたことがなかった」と語る彼は、DJプレイを続けているうちにこのスタイルにたどり着いたという[27]。極端に音数を減らした自身の曲を多用しながら、ほとんど暴力的にも聴こえる4つ打ちやパーカッションのみで構成されたレコードを次々と切り替えてDJを行うスタイルは大きなインパクトを与え、その楽曲は多くの追従者を生み出した。

その後もこういったダンス・ミュージックがかけられる場の人々の欲するままに、テクノにラテンの雰囲気が取り入れられたり、また楽曲のPC作成が進み、より複雑な音のサンプリングの切り貼りが強調され、さらにはミニマルが洗練されてハウス・ミュージックに近づくなど、さまざまな要素を取り込みながら試行錯誤を繰り返しつつ現在へと至るのである。2000年代以降には、ムーディーマンやセオ・パリッシュなどの、新しい世代のミュージシャンも登場してきている。
語源

一説では、テクノの第一人者であり名付け親でもあると自称するホアン・アトキンスが、未来学者アルヴィン・トフラーによる著書『第三の波』(1980年発行)の文中より「テクノレベルズ」(英:Techno-rebels)という造語に触発を受け、そこから自身の曲名などとして使っていたことに由来する[28]。テクノというジャンル名が定着する以前には、単にハウス・ミュージック、または地名からデトロイトのハウス・ミュージックと自他共に呼んでいた[29]

トフラーの造語である「テクノレベルズ」とは、日本語に訳すなら「技術に対する反逆者たち」となる。作中でトフラーは、産業革命以降の重厚長大型の大企業が世界を動かす仕組みを第二の波とし、それを超えていく新しい技術革新の流れを第三の波と規定した。その上で、次々と生まれる革新的かつ時に人類にとって危険ともなりうる新しい技術を野放しにせず、それに対しての管理を主張し使いこなす人々のことを「第三の波の代理人」にして「次の文明の先導者」と呼び、ある意味で逆説的にも聞こえる「技術に対する反逆者たち」と名づけた[30]

一方で、世界で初めてテクノと言う単語を電子音楽に当てはめたのは、クラフトワークらが活躍していた1978年に、日本の阿木譲が名付け親になったとする説もある[31]


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