1980年代後半から流行したダンス・ミュージックのスタイルに、テクノやハウスがある。アシッドハウス、デトロイト・テクノが代表的ジャンルであり、日本のテクノポップと直接的なつながりはないとされている[注 2]。
ただし日本国内においてはテクノポップとテクノの境目が曖昧である。電気グルーヴは当初テクノポップに近い楽曲を発表していたが後にハウス・テクノ的要素が強いバンドとなり、1991年頃のP-MODELはテクノの影響を受けた楽曲を多数発表している。
テクノポップの歴史初の音色メモリ可能なポリフォニックシンセサイザー、Prophet-5 (1978年)
1970年代末から80年代前半史上初のリズムマシン、Roland TR-808 (1980年) 。YMOは発売前のプロトタイプ機を使用していた。テクノポップブーム後期からバンドブーム期にかけて使用された代表的なシンセサイザー、YAMAHA DX7 (1983年)
テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている[4]。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている[5][6]。同じYMOのメンバー・細野晴臣は『シティロード』1981年1月号のインタビューで、質問者から「日本でのマスコミ的テクノ・ポップ・ブームについては?」という質問に対して「そもそも、YMOは言葉を否定したところからスタートしたんです。今や言葉ではコミュニケーションがとれないのではないか、たとえば男女の間でも。だから勝手に『テクノ・ポップ』という言葉で僕らを規定されてもねえ…」と述べている。[7]渋谷陽一はNHK-FMで、クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」や「ザ・ロボッツ」をオンエアした。1980年代には、アフリカ・バンバータがクラフトワークを使用した曲を発表した。
1979年からYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」として同年にP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスが紹介された。
テクノポップ流行の背景としては、当時のサブカルチャーの特徴ある「軽さ」が挙げられ、1970年代的ヒッピー文化や学生運動へのアンチテーゼ的側面が指摘される[8]。椹木野衣は『黄色魔術』という小論でテクノポップの軽さについて論じ、テクノポップが、日本にとって1960年代から1970年代前半の文化の暗さや重さ(学生運動、劇画など)から脱却するための一つの方法論だったとの見方を提示している[9]。
ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ、大橋純子&美乃家セントラル・ステイションでファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳の一風堂などがいた。高木完やサエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。
また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一らなどがプロデュースしている[10]。ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの\ENレーベルなどがある。
この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題した[11]がお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした[注 3]。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に「ラジオ・スターの悲劇」のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており[12]、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。1980年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマン、M、リップス、ヒューマン・リーグ、ソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。