テクノポップ
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テクノポップという言葉は、1978年、大阪で『ロック・マガジン』を発行していたロック評論家の阿木譲が、クラフトワークのアルバム『人間解体』のレビューで使ったのが初出とされている[4]。この造語を気に入った坂本龍一がさまざまな媒体に出演して使ったことにより、一般に広まったといわれている[5][6]。同じYMOのメンバー・細野晴臣は『シティロード』1981年1月号のインタビューで、質問者から「日本でのマスコミ的テクノ・ポップ・ブームについては?」という質問に対して「そもそも、YMOは言葉を否定したところからスタートしたんです。今や言葉ではコミュニケーションがとれないのではないか、たとえば男女の間でも。だから勝手に『テクノ・ポップ』という言葉で僕らを規定されてもねえ…」と述べている。[7]渋谷陽一NHK-FMで、クラフトワークの「トランス・ヨーロッパ・エクスプレス」や「ザ・ロボッツ」をオンエアした。1980年代には、アフリカ・バンバータがクラフトワークを使用した曲を発表した。

1979年からYMOブームが起きると、YMOに続く「テクノ御三家」として同年にP-MODELヒカシュープラスチックスが紹介された。

テクノポップ流行の背景としては、当時のサブカルチャーの特徴ある「軽さ」が挙げられ、1970年代的ヒッピー文化や学生運動へのアンチテーゼ的側面が指摘される[8]椹木野衣は『黄色魔術』という小論でテクノポップの軽さについて論じ、テクノポップが、日本にとって1960年代から1970年代前半の文化の暗さや重さ(学生運動、劇画など)から脱却するための一つの方法論だったとの見方を提示している[9]

ブーム期のテクノポップ・バンドとしては他に、「恋のベンチ・シート」をヒットさせたジューシィ・フルーツ(ヒカシューと同じく近田春夫がプロデュースしている)、小川美潮が在籍したチャクラ大橋純子&美乃家セントラル・ステイションファンク曲を作曲したこともある土屋昌巳一風堂などがいた。高木完サエキけんぞうもテクノ・ポップ・グループを結成したが、ラジオではオンエアされず、不発に終わってしまった。

また、アイドルや芸能人による『テクノ歌謡』もリリースされた。これらの曲の一部は、坂本龍一らなどがプロデュースしている[10]。ブームを担った中核的なレーベルとしては、YMOや戸川純らが在籍したアルファレコードの\ENレーベルなどがある。

この頃来日したクラフトワークは「テクノポップ」と言う言葉を気に入り1983年にリリースを予定したアルバムタイトルを『TECHNO POP』と題した[11]がお蔵入りとなり、1986年に『エレクトリック・カフェ』と改題してリリースした[注 3]。この中に「TECHNO POP」と題する曲が収録されている。バグルスは1979年に「ラジオ・スターの悲劇」のヒットを出したあと、1980年に発表したシングル「CLEAN CLEAN」のB面に「TECHNOPOP」という曲を収録しており[12]、アルバム『THE AGE OF PLASTIC』の1999年リマスター版にも追加収録されている。1980年代前半の欧米では、ゲイリー・ニューマンMリップスヒューマン・リーグソフト・セルらが「シンセ・ポップ」の全米ヒットを送り出した。ゲイリー・ニューマン「カーズ」、M「ポップ・ミューヂック」、リップス「ファンキータウン」、ヒューマン・リーグ「ドント・ユー・ウォント・ミー」、ソフト・セル「テインテッド・ラブ」、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)「エノラ・ゲイの悲劇」。ウルトラヴォックス「ニュー・ヨーロピアンズ」、ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」、当時の代表的なヒット曲である。ヤーブロウ&ピープルズの「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」(1981年)はボーカルがソウルフルなため、テクノ・ポップというよりも、R&Bグループがテクノを取り入れたものと、とらえた方がよい。
1980年代後半Casio CZ-101 (1984年)
通称カシオトーンは非常に安価だったことから、人生の石野卓球など主にインディーズ系ミュージシャンに支持された。

1985年頃に起こった第二次バンドブームなどの影響もあり、テクノポップやテクノ歌謡はメジャー音楽シーンから消えていく。この頃にテクノポップでデビューしたPSY・Sも、早々に「ロックバンドの音を前面に出す音楽形態」に転向している。この頃は「シンセサイザーを駆使しているがテクノポップとは異なる」音楽、すなわちTM NETWORK[注 4]accessのようなデジタルロック喜多郎姫神のようなニューエイジ音楽などが登場した。

一方、同時期に雑誌『宝島』などのサブカルチャー雑誌に牽引されて勃興したインディーズバンド・ブームの渦中においては、テクノポップ色の強いアーティストが存在感を放っていた。ケラ率いる有頂天らのレコードは宝島社傘下のキャプテンレコードによって全国に紹介され、また有頂天のケラが設立したナゴムレコードに所属する空手バカボン人生などもインディーズチャートを賑わせた。有頂天の「べにくじら」や、ケラが後に結成したユニット「ロングバケーション」の「シェリーにくちづけ」テクノポップカバーなどはメジャーでリリースされ、一般にも知られている。

また同時期にテレビゲームやコンピュータゲームもブームとなっており、ゲームで演奏されるゲームミュージック、すなわちシンセサイザー音色を活かしたインストゥルメンタル音楽に傾倒していく人々も多く現れるようになった。YMOのファースト・アルバムで「インベーダーゲーム」が収録されていたように、ゲームミュージックシーンの草創期から、テクノポップシーンの人材が関わってゆくことになる。1985年には\ENレーベルを擁するアルファレコードにおいて、初のゲームミュージック専門のレーベルとしてG.M.O.レコードも設立された。
1990年代

テクノポップに変わり電子音楽の主流となったジャンルの1つはテクノである。1988年以降に世界的に流行し、日本ではケン・イシイや石野卓球が有名となった[13]人生改め電気グルーヴは、初期はハウスラップなどに傾倒していたが、石野がアシッドムーヴメントに触れた1990年代以降はテクノ色を鮮明にしてゆき、1997年に『Shangri-La』をヒットさせた。イギリスの808ステイトジ・オーブオービタルといったテクノアーティストがテクノ・ポップの楽曲をリミックスする企画アルバムもリリースされた。

楽器メーカーが数々のシンセサイザーを発売し低廉化・大衆化する動き[注 5]があったものの、1990年代末期までの間はテクノポップのリバイバル化に直接影響することは無かった。

しかし、1990年代前半に流行し、21世紀のテクノポップやフューチャーポップに影響を与えた渋谷系の中で細々とテクノポップに類する音楽は制作されており、特に佐藤清喜と清水雄史からなるnice musicは「キラキラ」して「ピコピコ」しているためフューチャーポップの先駆けと言われる事もある。しかしこうしたテクノポップは小室ファミリーのようなカッコ良さを求める時代のトレンドから乖離していたため注目されず、後の音楽シーンに多大な影響を与えたとは言い難かった。従って、渋谷系のテクノポップはオーパーツ・ミュージック的な扱いに留まっている[14]
2000年代以降1990年代から2000年代以降に一般的となったDAWの例。


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