南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜だった。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスは、カウボーイのイメージと結び付けられることが多い。1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わった。20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では50以上で全米のどの州よりも多い[7][8]。各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。所得税や法人税がかからないといった税制優遇や賃金・土地の安さといったビジネス環境の良さから[9]、トヨタ自動車北米本社[10]やテスラ、オラクル、ヒューレット・パッカード・エンタープライズ(HPE)など[11]、西部のカリフォルニア州などからテキサス州に移転する企業がさらに他の企業の移転を呼び込んでいる[12]。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)はカリフォルニア州に次いで国内第2位である。一人当たり総生産は国内第23位となっており、国内平均より低い。テキサス州はもともとカウボーイなどのイメージ通り共和党が強い保守的な州(赤い州)であったが、リベラル色の強いカリフォルニア州(青い州)などから多く人の移住したことから、スイング・ステート(激戦州)に移行しつつある[13]。
歴史詳細は「テキサス州の歴史」を参照「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「メキシコ独立革命」、および「テキサス革命」も参照テキサス共和国の領土アラモ伝道所
先コロンブス期のこの地にはインディアンの諸部族が居住していたが、1492年にアメリカ大陸がクリストファー・コロンブスによって「発見」されると、テキサスもヨーロッパ人によって征服された。
16世紀以来、スペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領(「新しいスペイン」)に属し、1821年メキシコがスペインから独立すると、メキシコ領コアウイラ・イ・テハス州の一部となった[14][15]。メキシコ政府はこの地方の開発を進めるため、アメリカ合衆国人移民を認め[16]、アメリカ合衆国人人口が増加したテハス各地でのアメリカ合衆国人入植者たちの発展が進むにつれてアメリカ合衆国人入植者とメキシコ政府との摩擦が起り、その為1830年にメキシコ政府はアメリカ合衆国人入植者がアメリカからテキサスへ来るのを禁止した[17]。
奴隷制を認めないなどの、メキシコの政策に不満を感じたアメリカ合衆国人入植者たちはテキサス革命を決心し、1835年にメキシコからの分離を目指して反乱を起こし[18]、1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言した。同年メキシコ軍の進軍によりアメリカ合衆国人入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅した(アラモの戦い)。テキサス独立軍は「アラモを忘れるな」("Remember the Alamo")を合言葉に、メキシコ軍と対峙、メキシコのカウディーリョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍をサンジャシントの戦いで撃破した[19]。司令官のサンタ・アナが捕らえられ、テキサス共和国の成立を認めるベラスコ条約(英語版)に署名した。
テキサスの独立後、アングロ・サクソンが主導権を握ったテキサス共和国ではメキシコ政府が廃止した黒人奴隷制が復活した。
1845年にテキサスはアメリカ合衆国の28番目の州として併合された[20]ため、翌1846年テキサスを併合されたメキシコがアメリカに宣戦し米墨戦争が起こった。米墨戦争はアメリカ合衆国優位に進み、1848年アメリカ合衆国はメキシコを破った。この戦争によってメキシコは領土の半分を失い、アメリカ合衆国は現カリフォルニア州、アリゾナ州などの現南西部をメキシコから得た。
1861年の南北戦争ではアメリカ連合国に属し[2][21]、戦後1870年に合衆国への復帰が認められた。
地理グアダルーペ山脈詳細は「テキサス州の地理(英語版)」を参照
テキサス州はアメリカ合衆国の南中部に位置している。州境の三方が川で規定されている。西部でニューメキシコ州、北部はレッド川を挟んでオクラホマ州に、及び東部はサビン川(英語版)を挟んでルイジアナ州、およびアーカンソー州に接している。南西部においてはリオ・グランデ川を国境として、メキシコのチワワ、コアウイラ、ヌエボレオン、及びタマウリパスの各州と接している。パンハンドル(州北部をなす長方形の)地域とオクラホマ州との東部州境は西経100度線、北部州境は北緯36度30分線、ニューメキシコ州との西部州境は西経103度線となっている。エルパソ市は州の西端にあり、北緯32度線とリオ・グランデ川に接している[22]。