テオドール・モレル
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このため、ベルリン大学からフォン・アイケン教授が呼び寄せられたが、モレルは彼の診察を阻んで追い返した。28日になっても痛みは治まらず、主治医の一人エルヴィン・ギージンク(ドイツ語版)は、黄疸ではないかと診断したが、モレルは「心労による肝機能障害」と診断した。ヒトラーは大量のひまし油を飲まされ、カモミール液の浣腸を受けた。このため彼は激しい下痢に襲われ、一日で体重が2.4kgも減少したという。それでも胃痛は治まらず、尿からは黄疸の症状を疑わせる診断結果が出た。しかし、モレルはその検査結果を金庫に隠し、他の主治医に見せなかった。

10月1日、ギージンクはヒトラーに処方されたモレルの薬を服用してみた。薬にはアトロピンやストリキニーネといった劇物が含まれており、ヒトラーが普段訴えている体調悪化と同じ症状が出た。このため、ギージンクとブラントは、ヒトラーに対してモレルの解任を進言した。しかし彼はヒムラーにモレルの尋問を行わせ、対応を一任した。ヒムラーに尋問されたモレルは、診察結果を隠していたことを明かし、薬の危険性についても告白した。この結果を受けたヒムラーは、逆にギージンクとブラントらを解任し、モレルを留任させた。これは彼に対するヒトラーの信任を重視したための措置であった。ただし、ヒトラーの健康管理にはルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガーSS少佐を当たらせることにし、モレルの投薬も一旦中止させた。結果、ヒトラーの胃痛はまもなく回復した。

しかし、ヒトラーのモレルへの信任はその後も揺らがず、大戦最末期のベルリン攻防戦で首都が包囲された1945年4月の段階まで、彼は主治医を務めていた。この頃のヒトラーへの処方は、数時間おきのブドウ糖注射、メタンフェタミンを含む静脈注射、そして28種類の違った錠剤であったという。

1945年4月22日、ヒトラーはこれ以上の治療は必要ないとして、モレルを総統地下壕から脱出させた。しかし彼の薬は残されており、主治医の一人ヴェルナー・ハーゼSS中佐ハインツ・リンゲSS中佐によって管理されていた。
逮捕と死

モレルはベルリンから脱出する最後の飛行機に乗り込んだが、すぐにアメリカ軍に捕らえられた。ブーヘンヴァルト捕虜収容所で彼の尋問が行われたが、犯罪に当たるものはなく訴追されなかった。彼の尋問に当たった者の一人は、彼の肥満と不潔さにうんざりしたという。モレルの健康は以後急速に悪化し、肥満と言語障害に苦しんだ。その後、1948年5月26日にテーゲルンゼーの病院で死亡した。
ヒトラーに処方された薬

医師の小長谷正明は、著書『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』(中公新書、ISBN 4121014782)で、ヒトラーがモレルを重用したのは自身のパーキンソン病の症状を抑える薬物(アンフェタミンやアトロピンなど)を容易に処方してくれたからではないか、と推測している。

アンフェタミン

ベラドンナエキス

アトロピン

カフェイン

カモミール

コカイン (眼痛を抑える点眼薬として。また、ギーシンクも鎮痛剤として少量投与している)

大腸菌

酵素

メタンフェタミン

モルヒネ

ストリキニーネ

オキセドリン酒石酸塩

臭化カリウム

プロピフェナゾン

動物の組織や脂肪から採取した蛋白質脂質

バルビタール

スルホンアミド

テストステロン

ビタミン

参考資料

児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫

脚注[脚注の使い方]^ a b c 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキクォートにTheodor Morellに関する引用句集があります。










アドルフ・ヒトラー
経歴

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アンシュルス

ミュンヘン会談

ヒトラーの予言演説(英語版)

第二次世界大戦

7月20日事件



関連人物

尊属

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