テオドール・アドルノ
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[2][注 1]
経歴フランクフルト市内にあるアドルノのモニュメント。仕事場であった書斎をモチーフにしている

ヘッセン州フランクフルト・アム・マインワイン商人の父オスカー・アレクサンダー・ヴィーセングルント(Oscar Alexander Wiesengrund)と、歌手の母マリア・バルバラ・カルヴェリ=アドルノ(Maria Barbara Calvelli-Adorno)の間に生まれる。一人っ子であった。父オスカーはもともとユダヤ系であったが、カトリックのマリア・バルバラと結婚する前にプロテスタントに改宗している。

アドルノは学業成績も極めて優秀であり、ギムナジウムを2年飛び級で卒業した上にアビトゥーアに首席で合格した。フランクフルト大学に入学して哲学音楽心理学社会学を学んだ。

アドルノは大学時代から音楽批評を多く発表していたが、目指していたのは作曲家であった。1924年に大学を卒業すると、本格的に作曲を学ぶためアルバン・ベルクを頼ってウィーンへ移るが、肩入れしていたシェーンベルクらの音楽が世間で不評であったことに落胆し、再び音楽批評の活動に戻った後、1926年ウィーンを去った。

その後フランクフルトに戻り、次いでベルリンに滞在するが、ナチスの勢力伸長に伴い、ユダヤ系の出自であるアドルノは1934年イギリスへ、さらに1938年アメリカに渡る。この頃から「テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno)」という名前表記を用いるようになった。

第二次世界大戦後の1949年フランクフルト大学の社会研究所 (Institut fur Sozialforschung) が再スタートを切った際に帰国、ホルクハイマーと共にこの研究所の所長に就任し、亡くなるまでここに籍を置いた。ヨアヒム・カイザーハインツ=クラウス・メツガーは彼の教え子に当たる。夏のダルムシュタット夏季現代音楽講習会ではシュトックハウゼンブーレーズノーノらのセリエル音楽の理論的指導者として大きな教育的功績を与え続けた。

1928年から1931年にかけて、ウィーン前衛音楽誌「アンブルッフ」の編集長を務める。1969年8月6日、妻とともに休暇で訪れたスイス・フィスプで心筋梗塞を起こし、当地にて死去。65歳であった。1977年、フランクフルト市によってテオドール・アドルノ賞が設立された。
ナチズムと文化への批判

細見和之によると「アウシュヴィッツのあとでを書くことは野蛮である」
"Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch"

というアドルノの言葉は、文化批判として広く知られている[3](『プリズメン─文化批判と社会』)。後の『否定弁証法(英語版、ドイツ語版)』の中でアドルノは、より端的に「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑となった」

と論じている[4]。「アウシュヴィッツ」という言葉は、ユダヤ人や少数民族を殺戮する絶滅収容所が置かれたポーランドの町の名前であり、ホロコースト象徴としても使われている[5]


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