テオドール・アドルノ
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1969年8月6日、妻とともに休暇で訪れたスイス・フィスプで心筋梗塞を起こし、当地にて死去。65歳であった。1977年、フランクフルト市によってテオドール・アドルノ賞が設立された。
ナチズムと文化への批判

細見和之によると「アウシュヴィッツのあとでを書くことは野蛮である」
"Nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch"

というアドルノの言葉は、文化批判として広く知られている[3](『プリズメン─文化批判と社会』)。後の『否定弁証法(英語版、ドイツ語版)』の中でアドルノは、より端的に「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑となった」

と論じている[4]。「アウシュヴィッツ」という言葉は、ユダヤ人や少数民族を殺戮する絶滅収容所が置かれたポーランドの町の名前であり、ホロコースト象徴としても使われている[5]。アドルノが批判的に問い直したのは、アウシュヴィッツでのホロコーストに代表される「野蛮」な側と、詩に代表される「文化」的な側との関連だった[4]。こうしたアドルノの批判は、ナチス時代反省において不可欠となり、代表的な警句アフォリズム)となっている[6]

細見が言うには、アウシュヴィッツでガス室が稼働し始めたのは1942年3月という過去だが、当時の世界が現代よりも「野蛮」な時代だったと考えることは適切でない[7]。ドイツでさえ、ベートーヴェンブラームスなどのクラシック音楽で知られる国だった[7]。つまり伝統美術に代表され、ロマンチック(ロマン主義的)で教養に満ちた「文化」側は、ナチス・ヒトラー・ホロコーストのような独裁惨事に満ちた「野蛮」側と、表裏一体の関係になっている[7]。「ドイツロマン主義」、「感情主義」、「反啓蒙主義」、および「反西洋主義#ドイツロマン主義」も参照
ナチス機関誌加担について

1933年、ナチスがアメリカ黒人ジャズを禁止すると、アドルノは、ジャズは愚かであって救済すべきものはなにもなく、「ジャズの禁止によって北方人種への黒人種の音楽影響は除去されないし、文化ボルシェビズムも除去されはしない。除去されるのは、ひとかけらの悪しき芸術品である」と、当時ナチスが頻繁に使用していた「除去」「人種」「文化ボルシェビズム」といった言葉を使用して批評した[8]

1934年にアドルノは、ナチ全国青年指導部(Reichsleitung)の広報誌月刊ムジーク1934年6月号に論評を発表し、ヘルベルト・ミュンツェル(Herbert Muntzel)作曲のツィクルス「被迫害者の旗(Die Fahne der Verfolgten)」を誉めた[9][10][11]。この曲はヒトラーユーゲント全国指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの詩に曲をつけたものであった[12]。アドルノはこの曲がすばらしい根拠は、「シーラッハの詩を選ぶことで自覚的に国民社会主義的な特徴をしるしている」こと、またヨーゼフ・ゲッベルスが『ロマン主義的リアリズム』と規定した「新しいロマン主義の表象化が追求されていることにあると書いた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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