テオドール・アドルノ
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アルノルト・シェーンベルクをはじめとした新ウィーン楽派を賞賛する一方、イーゴリ・ストラヴィンスキーパウル・ヒンデミットなどの新古典主義的傾向をもつ音楽や、ジャン・シベリウスリヒャルト・シュトラウスヨーゼフ・マルクスといった、20世紀において後期ロマン主義のスタイルをとり続ける作曲家には否定的であった。また、一貫してジャズポピュラー音楽には批判的な態度をとりつづけた。なお、トータル・セリエリズムの最初期の作品であるカレル・フイヴェールツの「二台のピアノのためのソナタ」については「曲の形がはっきりしない」と評した。[2][注 1]
経歴フランクフルト市内にあるアドルノのモニュメント。仕事場であった書斎をモチーフにしている

ヘッセン州フランクフルト・アム・マインワイン商人の父オスカー・アレクサンダー・ヴィーセングルント(Oscar Alexander Wiesengrund)と、歌手の母マリア・バルバラ・カルヴェリ=アドルノ(Maria Barbara Calvelli-Adorno)の間に生まれる。一人っ子であった。父オスカーはもともとユダヤ系であったが、カトリックのマリア・バルバラと結婚する前にプロテスタントに改宗している。

アドルノは学業成績も極めて優秀であり、ギムナジウムを2年飛び級で卒業した上にアビトゥーアに首席で合格した。フランクフルト大学に入学して哲学音楽心理学社会学を学んだ。

アドルノは大学時代から音楽批評を多く発表していたが、目指していたのは作曲家であった。1924年に大学を卒業すると、本格的に作曲を学ぶためアルバン・ベルクを頼ってウィーンへ移るが、肩入れしていたシェーンベルクらの音楽が世間で不評であったことに落胆し、再び音楽批評の活動に戻った後、1926年ウィーンを去った。

その後フランクフルトに戻り、次いでベルリンに滞在するが、ナチスの勢力伸長に伴い、ユダヤ系の出自であるアドルノは1934年イギリスへ、さらに1938年アメリカに渡る。この頃から「テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno)」という名前表記を用いるようになった。

第二次世界大戦後の1949年フランクフルト大学の社会研究所 (Institut fur Sozialforschung) が再スタートを切った際に帰国、ホルクハイマーと共にこの研究所の所長に就任し、亡くなるまでここに籍を置いた。ヨアヒム・カイザーハインツ=クラウス・メツガーは彼の教え子に当たる。夏のダルムシュタット夏季現代音楽講習会ではシュトックハウゼンブーレーズノーノらのセリエル音楽の理論的指導者として大きな教育的功績を与え続けた。

1928年から1931年にかけて、ウィーン前衛音楽誌「アンブルッフ」の編集長を務める。1969年8月6日、妻とともに休暇で訪れたスイス・フィスプで心筋梗塞を起こし、当地にて死去。


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