ティムールは読み書きこそできなかったが、彼と対面した人間は概して教養人という印象を抱いた[211]。国家が拡大するにつれて、ティムールは歴史に強い興味を抱くようになる[215]。遠征の途中などで時間が空いたときには従者に書物を読み上げさせ、特に歴史書を好んだという[211]。歴史以外にも医学、天文学、数学の価値を評価し、建築に関心を示した[211]。ティムールは学者のほかに、芸術家や職人に対しても尊敬の念を抱いていた[32]。
ティムールが面会した学者の一人に、イスラム世界を代表する歴史家イブン・ハルドゥーンが知られている。1401年にダマスカスを攻略した時にティムールはハルドゥーンの所在をマムルーク朝の使者に尋ね、彼が面会を望んでいることを知ったハルドゥーンはティムールの元に赴いた。2人は通訳を介して対話し、ハルドゥーンの故郷であるマグリブの事情について強い興味を持つティムールのためにハルドゥーンは地理書『マグリブ事情』を献呈した[216]。そして、アラビア語で書かれた『マグリブ事情』は、後世に優れた史書を残そうというティムールの思惑により、彼の書記によってテュルク語に翻訳された[217]。ハルドゥーンは35日間ティムールの陣営に滞在し、歓待を受け、ティムールと言葉を交わした[218]。エジプト帰国後にハルドゥーンはモロッコのマリーン朝のスルターンに宛てた報告書の中で、ティムールの知性と探究心を讃える文を書いた[219]。
ティムールとチェス「タメルラン・チェス」も参照
ティムールの趣味の一つにチェスがあり、暇を見てはチェスを楽しんでいた[220]。その腕前は相当なものであり、名人とも対局した[213]。夜中に一人で巨大なチェス盤に向き合って物思いに耽り、複雑な戦略を巡らせながら駒を動かしていたエピソードが知られている[178][221]。このため、ティムールはチェスから戦術の着想を得たという見方も存在する[222]。
また、ティムールがチェスを指している時に子供が生まれ、ちょうどその時手に持っていた王城(ルーク)の駒にちなんで、子に「ルフ(Rukh)」の名前を付けた伝承が存在する[223]。15世紀のティムール朝の歴史家であるハーフィズ・アブルーは、ティムールのチェスの相手を務めていたことでも知られている[224]。
イスラームの信仰ティムールが増築したホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟
イスラム教を信仰するとともにモンゴルの伝統にも従ったティムールは、酒をこよなく愛し[156][225]、伝統的なモンゴルのシャーマニズムを信仰する人間に改宗を強制しなかった[226]。ティムールは同朋であるイスラム教徒を殺害し、時には奴隷とした。さらにモスクを汚し、イマームを殺害するなど、敬虔なイスラム教徒とは言い難い行動が多く見られた[156]。ヤズディー、ハーフィズ・アブルー、アラブシャーらティムールと同時代の歴史家は、彼が絵画に興味を持っていたことを記録している[213]。ティムールはマニ教の教祖マニが描いたという絵画を飾り[213]、ペルシアやバグダードの画家に宮殿を飾る壁画を描かせた[227]。
ティムールは信心深いムスリムとは言い難かったが[228]、一定の信仰心も持ち合わせており、スーフィズムに強い関心を抱いていた[229][230]。スーフィズムだけでなく正統派のイスラームにも敬意を表し、ティムールはウラマーと積極的に交流を持ち、イスラーム学者の著述活動に保護を与えた[230]。一方でニーマトゥッラー教団の創始者ニーマトゥッラー・ワリーの活動を危険視してマー・ワラー・アンナフルから追放し、各地を移動するスーフィズムの修行者を間諜として利用していた[231]。
ティムールは父のタラガイが師事していたスーフィー・シャムスッディーン・クラールを尊敬し、自身の軍事的成功はクラールの祈りによってもたらされたと述懐した[232]。バルフ包囲の際にティムールの陣営を訪れたスーフィー・サイイド・バラカはティムールの成功を予言し、ティムールは彼を師父とした[233]。バラカは宗教面だけでなく政治においてもティムールに助言を与え、1404年に没した[234]。ティムールは自分が死んだ後はバラカの足元に葬って欲しいと考えており、ティムールが亡くなった後にバラカの遺体はグーリ・アミール廟に運び込まれてティムールの近くに安置された[235]。1373/74年、ティムールは故郷のキシュに建立されていたクラールの廟の隣に新たな廟を建て、ここに父タラガイの遺体を安置する[236]。1397年にはヤシにあるスーフィー・アフマド・ヤサヴィーの墓を巡礼した。この時にヤサヴィーの廟に用地をワクフとして寄進し、霊廟の増築を命令した[237]。
ある年代記には、ティムールがキリスト教寺院の神性とキリスト教徒の信仰心に理解を示した伝承が記されている[238]。三年戦役でのアルメニア攻略の際、ティムールは虐殺を逃れて洞窟内の修道院に隠れたキリスト教徒の集団に遭遇し、彼らに命を助けるかわりに修道院が保管している古い写本を提出するように要求した。キリスト教徒は命よりも大事な写本の提供を拒み、彼らの信仰心に心を打たれたティムールは命を助けたという[238]。 遠征の時、ティムールは抵抗する敵を追い詰めるためにしばしば焦土作戦を用いた[239]。戦闘の前に都市へ降伏を勧める使者を送ったが、交渉が決裂すると都市は虐殺と破壊の対象とされた[240]。軍隊の突入の前に警告が発せられ、その後に残った住民と守備兵の虐殺、拉致、略奪、城壁の破壊が行われた[240]。1383年のスィースタン遠征においてティムールは灌漑施設を破壊し、ティムールの破壊行為は長期にわたってスィースタンの発展を遅らせた原因として見なされている[241]。 征服地から得られる利益を確保するため、原則的にティムール軍は兵士に征服地での略奪、強姦を禁じていた[143]。しかし、征服地で反抗の兆候が見られると、ティムールは恐怖を植え付けるために大量虐殺を行い、住民を服従させた。ヘラート、イスファハーンで行われた「見せしめ」のための虐殺、デリーでは自軍の安全を保障するための虐殺が行われた[143]。非イスラム教徒に対しては虐殺そのものを楽しんでいた傾向もあった[143]。
征服地での残虐行為