1398年から1399年にかけて、ティムールはインドに軍事遠征を行った。
1397年末よりアフガニスタンを統治していた孫のピール・ムハンマドにインドへの攻撃を命じていたが[130]、ピール・ムハンマドがムルターンの攻略に苦戦していたためにティムールは親征を決定した[129][131][132]。遠征においては92,000人の兵士を動員し、それを3部隊に分けて進軍した[133]。
ソユルガトミシュの跡を継いだチャガタイ・ハンであるスルタン・マフムードを左翼軍の司令官として南下させ[134]、ティムール自身は後方の安全を確保するためにヒンドゥークシュ山脈(現在のヌーリスターン州に相当する地域)を根城とする賊徒の討伐を指揮した[133][135]。氷雪が積もる高山の進軍は困難なものとなり、盗賊団が立て籠もる山城の攻略では配下の将兵の士気が萎縮していた[136]。ティムールは山賊の討伐を諦めず、山城の包囲が無益であると説得した軍師ムハンマド・コアギンの地位を剥奪したことがアラブシャーによって記録されている[137]。奮い立った兵士たちによって山賊は殲滅された後、ティムールは遭遇する敵対勢力を撃破しながらカーブルに移動した。インド行軍中にアフガニスタン各地の反乱勢力が討伐されたことは治安の回復と交通路の確保につながり、ティムール朝のアフガニスタン方面の支配が強化された[138]。
一方、ピール・ムハンマドはムルターンを制圧した後に洪水で軍馬を失っており、インドの領主たちから包囲を受けていた[139]。ティムールはピール・ムハンマドと合流し、10月に彼の部隊を本隊に組み入れてあらためてデリーに進軍した[140]。
12月13日[141]、デリーから出撃した軍隊との会戦の前に捕虜の反抗を危惧したティムールは[142][143][144]100,000人に及ぶヒンドゥー教徒の捕虜を処刑した[7]。12月17日[145](あるいは18日[146])にティムール軍はトゥグルク朝のスルターン・マフムードが指揮する軍隊と交戦する。戦闘に際してティムールは敵側の戦象に対して入念な方策を巡らせていた。騎兵の活躍によって戦象は壊滅し、トゥグルク軍は敗走した[147]。
デリーに入城したティムールは12月20日に占有を宣言し、戦勝を祝う祝宴を開いた[148]。デリー入城後、ティムール軍の兵士は城内で破壊と略奪を行い、さらに抵抗する住民を殺害した[149][150]。ティムールはデリー滞在中に120,000頭に及ぶ戦象と儀礼用の象の行進を見て楽しみ、それらの象をサマルカンド、ヘラート、タブリーズなどの帝国領の都市に持ち帰った[151]。
翌1399年1月にティムールはデリーを出発して帰国、かつてチャガタイ・ハン国のタルマシリンが陥落させることができなかったメーラトを攻略した[152]。ティムールは非イスラム教徒を弾圧しながら北上し、1399年3月末にマー・ワラー・アンナフルに帰還した[153][154]。
このインド遠征においては、異教徒との戦いが大義名分とされ[155]、ティムール朝の歴史家サラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)はインド遠征には宗教的な道義があったと述べた[156][133]。しかし、バルトリドなどの後世の研究者の多くはインド遠征に宗教的な理由があったことに否定的な見解を示している[157]。このインド遠征の背景にはインドの都市が有する財貨があると考えられており[123][155][158]、ティムールは遠征によって約100,000人の兵士の給料に匹敵するほどの財宝を獲得したと言われている[151]。