ティムール
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1370年4月9日[66]/10日[63]にティムールは豪壮な式典を開き、ハンに即位する意図は無いこととイスラム教を国教とする意思を表明した[63]

戦後、バルフではフサインを支持した住民への報復として略奪が行われ、内城が破壊された。フサインの2人の息子は火刑に処され[67]、ティムールはフサインが抱えていた妻のうち4人を自分の妻として残りの女性を配下の部族長たちに分け与えた[14][68]。ティムールが娶った妻の一人であるサライ・ムルク・ハーヌムはチャガタイ・ハン・カザンの娘にあたり、チンギス家の娘を娶ったティムールは「ハーンの娘婿」を意味する「キュレゲン」の称号を名乗った[67]

同1370年、ティムールはサマルカンドに移動して首都に定め、城壁、内城、宮殿を建設して外敵に備えた。
モグーリスタン、ホラズムへの遠征ティムールによるウルゲンチ包囲

マー・ワラー・アンナフルの統一後、ティムールは1370年から1372年にかけてカマルッディーンが支配するモグーリスタン・ハン国を攻撃した。モグーリスタンのマー・ワラー・アンナフルへの侵入を防ぐために遠征は定期的に行われ、1390年まで7回以上実施された[69][70]。ティムールは待ち伏せを得意とするカマルッディーンの戦術に苦しんだものの[71]、カマルッディーンの勢力は数度にわたるティムールの攻撃を受けて衰退する[72]

1372年にティムールはコンギラト部族の国家スーフィー朝が支配するホラズム地方に遠征軍を派遣する。14世紀半ばまで、ホラズム地方の北はジョチ・ウルス、南はチャガタイ・ハン国が支配していたが、それぞれの国が衰退するとコンギラトがホラズムを支配下に収めた。1371年にティムールはチャガタイ家が領有していたホラズム南部の返還を要求して軍を進め、首都ウルゲンチを包囲されたスーフィー朝の君主ユースフはホラズム南部の返還に同意して講和した[73]1373年、ティムールがモグーリスタン遠征に出発した隙をついてユースフがホラズム南部の奪回を図ると、ティムールはモグーリスタン遠征を中止してホラズムに急行する。同年冬、ティムールの王子ジャハーンギールとスーフィー朝の王女ソユン・ベグ(ハンザデ)の結婚を条件として和平が成立するが、ユースフはなおティムールに服従しなかった[74]

モグーリスタン・ハン国、スーフィー朝への遠征を行う中で、ティムールは西チャガタイ・ハン国時代から力を持っていた部族長達の反乱にも直面する。カルシを本拠とするタイチウト系カナチ集団のゼンデ・ムーサーは即位前からティムールに服従の意思を示さず、1371年と1372年の2回にわたって反乱を企て、ティムールは彼をサマルカンドの内城に幽閉した[75]1375年にユースフは和約を破ってホラズム南部のヒヴァとキャトを包囲すると、ティムールの即位前からの盟友だったフッターン・バルラス部のカイフスロがスーフィー朝に寝返った。ティムールはかつてのフサインの支持者にカイフスロを引き渡し、カイフスロは彼らに処刑された[76]。ホラズム遠征の直前にスルドゥス部の部族長ムハンマドに代えて配下のアクテミルにスルドゥスの指揮権を委ねることで、スルドゥスの統制を強化した[77]。1380年に西チャガタイ・ハン国の部族の中で最大の軍事力を有していたジャライル部を屈服させて以降、ティムールと部族長たちの対立はおおむね解消された[78]

1376年4月、分裂状態にあった北方のジョチ・ウルスの王族トクタミシュがティムールの元に亡命する[79]。ティムールはジョチ・ウルスのハンであるオロスの伸張を警戒しており、トクタミシュを利用してオロスを抑えようと考えた[79][80]。ティムールはトクタミシュに兵士と財貨を与えてキプチャク草原に送り返し、さらに抵抗の拠点としてオトラル、サブラン、スグナクの三都市を与えた。1377年にはティムールもオロスを討つために遠征し、スグナク・オトラル間の戦闘で勝利した[81]1378年にトクタミシュはオロスとトクタキヤの跡を継いだティムール・メリク・ハンを討ってハンに即位した。

ティムールは登位したトクタミシュが自身の忠実な同盟者になることを期待したが、トクタミシュはオロスの方針を継承してジョチ・ウルスの統一を目指し、1380年クリミア半島の有力者ママイを破ってジョチ・ウルスの再統一を達成する[82]。トクタミシュはジョチ・ウルス再統一後にアゼルバイジャンに遠征軍を送り、1385年にはタブリーズを攻撃する。やがて、中央アジアに勢力を広げるティムールは、トクタミシュと衝突することになる。

1376年夏、王子ジャハーンギールが早世する。ティムールは4人の息子たちの中でも、特にジャハーンギールに目をかけていた[83]

1376年から1377年にかけて、ティムールは5度目のモグーリスタン遠征を行う。1379年にティムールがモグーリスタンへの遠征に出ている最中、スーフィー朝のユースフがマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド近辺を略奪した。ユースフに一騎討ちを申し込まれたティムールは挑戦を受けて立ったが、怯んだユースフは決闘の場所に現れず、家臣に蔑視されたユースフは憔悴のうちに没した[74]。3か月の包囲の末にティムールはウルゲンチを攻略、ユースフを支持した一部の住民を虐殺した[74]
ペルシアへの遠征

1381年以降にティムールは定住文化が定着したペルシアの都市に対して積極的に遠征を行い[84]、「チャガタイ家にペルシア(イラン)の統治権を奉げる」ことを名分として掲げる[85]。当初のペルシア遠征の目的は領土の拡大ではなく、現地の政権を保護国化することにあった[86]。ほかに本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの発展に必要な家畜などの可動財産と労働力の獲得という経済的な理由、戦利品の分配による配下の忠誠心の維持がペルシア遠征の動機にあったと考えられており、ティムールは遠征に際して情報の収集を入念に進めていく[87]

1380年に開催したクリルタイで、ティムールはホラーサーン地方の王朝クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーを招集するが、ギヤースッディーンはクリルタイに出席しなかった。1381年にティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。ティムールはヘラートの攻撃前、住民に生命と財産の安全を保障したが占領後に重税を課し、さらに住民の蜂起を危ぶんで塔と城壁を破壊した[88]。この時にヘラートのウラマー(神学者)、イマーム(指導者)がティムールの故郷であるキシュに連行され、装飾された門扉もキシュに持ち運ばれた[89]1383年にヘラートの住民がティムール朝の徴税人を襲撃すると、見せしめとして王子ミーラーン・シャーによる虐殺が行われる[90]。反乱の責任はサマルカンドに連行されていたギヤースッディーンをはじめとするクルト朝の王族にものしかかり、彼らは処刑された[91][90]。ギヤースッディーンらの死によって、1383年にクルト朝は滅亡した[92]

ティムールはさらにホラーサーンの西に進み、同1381年にサブゼヴァール(英語版)に存在したサルバダール政権(英語版)(サルバダール運動 - 英語: Sarbedaran movement)を臣従させる。サルバダール政権の指導者アリー・ムアイヤドはティムールに忠誠を尽くすが1386年に戦死[90]、アリー・ムアイヤドを失ったサルバダール政権は影響力を失う[93]マーザンダラーンの支配者アミール・ワーリー、ケラスとトゥースの支配者アリー・ベクはティムールに反抗したが、いずれも滅ぼされた。

1383年にスィースターン、1384年初頭にカンダハルを征服し、アフガニスタン全域がティムール朝の支配下に入った[94]


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