ティムール
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

この戦闘はトクタミシュに痛手を与えたが、まだ彼は再起するだけの力を残していた[92][113]
五年戦役

1392年、トクタミシュを破って間も無くティムールは西アジア遠征を再開する。この戦役は「五年戦役」と呼ばれる[7]。遠征の前、ティムールはイラン全土の支配権はチンギス・ハーンからチャガタイの子孫に与えられたという名分を掲げ、イラン支配の正当性を主張した[114]

戦役の最初、ティムールはマーザンダラーンに残っていた未征服の都市を占領した。ムザッファル朝への攻撃が再開され、シーラーズに向かうティムールをシャーヒ・シュジャーの甥シャー・マンスールが迎撃した。1393年5月にティムール軍とシャー・マンスールはシーラーズ近郊で交戦、戦闘の混乱の中で親衛隊からはぐれたティムールはシャー・マンスールに肉迫され、頭を2度切りつけられる危機に陥る[115]。シャー・マンスールは主君の危機に気が付いた兵士によって殺害され、ティムール軍は勝利の後にシーラーズを占領した。当初ティムールはムザッファル朝の王族を厚遇していたが後に彼らを処刑し、ムザッファル朝の領土を併合した。

ジャライル朝のスルターン・アフマドから服従を拒否する書簡が送られると、ティムールはアフマドの本拠地バグダードを攻撃するためさらに西進を続けた。ティムール軍の接近を知ったアフマドはエジプトに逃亡し、バグダードはティムールの支配下に入った。バグダード占領後にティムールはバグダード北部で跋扈していた盗賊団の討伐に向かい、城壁の破壊と地下トンネル建設のために72,000人の兵士を動員したという[116]。砦を陥落させた後、犯罪者への見せしめとして盗賊団の生首を重ねた塔が建てられた[116]

バグダードの陥落後、ティムール軍の中で黒羊朝との戦いに敗れて撤退していた一団がマムルーク朝の捕虜となる。ティムールは捕虜の釈放を要求するが、マムルーク朝のスルターン・バルクークは要求の裏にあるティムールの意図を疑って、エルテナ侯国、オスマン帝国、黒羊朝、ジョチ・ウルスに同盟の結成を呼び掛けた[117]。ジャライル朝のアフマドがカイロに亡命するとバルクークは彼を歓待し、ティムールとバルクークは書簡を通して互いを挑発しあった[118]。しかし、グルジアとアゼルバイジャンでの反乱、トクタミシュ討伐の準備のために、五年戦役ではエジプトへの遠征は決行されなかった[119]。1394年1月(もしくは2月)に王子ウマル・シャイフがクルディスタンで戦死[120]。3月に孫のウルグ・ベクが誕生すると、ティムールは誕生を祝して反乱者に恩赦を与えた[119]。ティムールが反乱を鎮圧しながら東方に戻ると、防衛のためにシリアに駐屯していたバルクークもカイロに引き上げた。この年、マムルーク朝と黒羊朝の支援を受けたアフマドによってバグダードが奪還される。

1394年末にトクタミシュがデルベントを越えてティムール朝の領土で略奪を行うと、ティムールは遠征の準備を進めた[121]。1395年春にティムールは北に軍を進め、テレク川でトクタミシュと激突した(テレク河畔の戦い(英語版))。トクタミシュの兵士に囲まれたティムールは矢をすべて使い果たして槍を折りながらも敵兵を撃退し、助けの兵士が到着するまで持ちこたえる[122]。3日にわたる激戦の末にティムールは勝利を収め、部下の忠誠心はより高まった[122]。さらにドン川を遡ってモスクワ大公国とジョチ・ウルスの領土に侵入し、1395年から翌1396年にかけてサライアストラハンを破壊した。

テレク河畔での勝いとサライの破壊は、トクタミシュに決定的な一撃を与えた[123][124]。戦後、ティムールはマンギト部の有力貴族エディゲとジョチ家の王族ティムール・クトルクらがキプチャク草原に新たな政権を立てることを承認した[125][126]

1396年春にティムールはデルベントを経由して夏にサマルカンドに帰還し、五年戦役は終結した。1397年ごろにティムールはヒズル・ホージャの娘テュケル(トゥカル)を妃に迎え[111]、モグーリスタンと同盟を結んだ[127]。テュケルとの結婚に際して、ティムールは彼女を迎えるためにサマルカンド郊外に宮殿と庭園を造営した[128]。同年に孫のムハンマド・スルタンをモグーリスタンの統治に派遣して中国遠征の準備を進めるが、インド遠征によって中国への軍事活動はいったん中断される[129]
インド遠征ティムールとトゥグルク朝のスルターン・マフムードの戦闘

1398年から1399年にかけて、ティムールはインドに軍事遠征を行った。

1397年末よりアフガニスタンを統治していた孫のピール・ムハンマドにインドへの攻撃を命じていたが[130]、ピール・ムハンマドがムルターンの攻略に苦戦していたためにティムールは親征を決定した[129][131][132]。遠征においては92,000人の兵士を動員し、それを3部隊に分けて進軍した[133]

ソユルガトミシュの跡を継いだチャガタイ・ハンであるスルタン・マフムードを左翼軍の司令官として南下させ[134]、ティムール自身は後方の安全を確保するためにヒンドゥークシュ山脈(現在のヌーリスターン州に相当する地域)を根城とする賊徒の討伐を指揮した[133][135]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:214 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef