ティムール
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ペルシア語では「跛者のティムール」を意味する「タメルラング」「ティムーリ・ラング」「ティムール・イ・ラング」(T?m?r-i Lang)とも呼ばれ、ペルシア語名のT?m?r-i Langが英語に転訛したタメルラン(Tamerlane)の名前でも知られている[7][8]。「跛者のティムール(T?m?r-i Lang)」の渾名はヨーロッパ世界でも普及し、タメルランのほかにタマレイン(Tamerlane)、タンバレイン(Tamburlaine)といった名前で呼ばれている[8]。また、この名は中世モンゴル語では Temur、現代ウズベク語では Temur であり、「テムル」とも表記される。『明史』などの漢語史料では「帖木児」と表記される。

語義は「」を意味し[9][10][11]、この名を持つテュルク系、モンゴル系の人物は少なくなかった。ティムール自身、一時はトゥグルク・ティムールの許におり、また、その覇道の最中で他の「ティムール」という名を持つ男達と何度か敵対している(ティムール・メリク、ティムール・タシュなど)。

ティムールはチンギス・ハーンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず[4][12][13]、「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗った[14][15]。ティムールが鋳造した貨幣にはチャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれ、モスクの金曜礼拝でもハンの名前とキュレゲンの称号がフトバに入れて唱えられた[13]。彼が没してからおよそ20年後、ティムール朝で編纂された史書『ザファル・ナーマ』で彼が生前名乗らなかった「ハーガーン(ハン)」「スルターン」の称号が追贈された[16]

史家が著した年代記では、ティムールは「サーヒブ・キラーン(サーヒブ・ギラーン、Sahib Qiran、「幸運な二つの星が交わるとき生まれた支配者」[17]、「吉兆の合(吉兆の星である金星と木星が太陽と重なる天文現象)の支配者」[18]、「星座の支配者」[19])」の雅号で呼ばれている。その歴史家のうち、ヤズディー(英語版)はティムールとともにアレクサンドロス3世を、ニザーム・アッディーン・シャーミー(英語版)はチンギス・ハーンとティムールの孫ウマルを「サーヒブ・キラーン」として称している[20]
生涯「ティムールの征服戦争」も参照ティムール
若年期

ヒジュラ暦736年シャアバーン月25日火曜日の夜[21]1336年4月8日[22][23][24][25][26]/4月9日[23])にサマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村でバルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれる[注 1][注 2][注 3]。後世の史書ではタラガイ、ティムール父子はチンギス・カンからチャガタイに王傅として与えられたバルラス部の千人隊長カラチャル・ノヤンの子孫であるとされるが、カラチャルからタラガイに至る人物は同時代史料に記述のない者ばかりであり、史実かどうか疑わしいと考えられている[27]。バルラス部はマー・ワラー・アンナフルを支配するモンゴル人の国家西チャガタイ・ハン国(ブルガリア語版、wikidata)[28]に属し、モグーリスタン(東トルキスタン)を支配する東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)と対立していた。

幼少期と青年期のティムールの動向について記した信憑性の高い記録は極めて少ない[23]。バルラス部の傍流の出身である父タラガイの家は裕福とは言い難く[29]、ティムールに従う従者はわずかに4、5人[30]、あるいは10人ほどだった[31]。若年期のティムールは乗馬と弓術を学び[9]、ペルシア語とテュルク語に加えてモンゴル語を話すことができた[32]。早くに実母を亡くしてタラガイに育てられ、狩猟、家畜の見張りに携わっていた[33]。やがて、ティムールの人望と能力に惹かれたためか、彼の周りに様々な出自の人間が集まり始める[34]。クラヴィホの報告、アラブシャーの伝記によると、若いティムールは数人の部下を連れて略奪行為を行っていたという[23]。ティムールは気前よく戦利品を分け与えたために部下の数は増え、強盗団の数は300人にまで増えたと伝えられている[35]

やがてティムールは西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンに見いだされ、20歳にならないうちにカザガンの側近に登用される[36]。この時にティムールはカザガンの孫アミール・フサインと親密になる[36]1358年頃にカザガンが暗殺され、カザガンの子アブドゥラーフが失脚すると、統制を失ったマー・ワラー・アンナフル各地に貴族(アミール)たちが割拠した[37]

キシュを中心とするカシュカダリヤ地方 - バルラス部のハージー・ベク(英語版)。ティムールの叔父にあたる人物。

ホジェンドを中心とするフェルガナ地方 - ジャライル部のバヤジド

カーブル - カザガンの孫フサインが率いるカラナウス部族

バルフ - スルドゥズ部のオルジェイ・ブカ

この他にも、各地の都市でテュルク・モンゴル系の貴族や土着の勢力が割拠し、互いに争っていた。
ティムールの台頭

1360年の2月から3月にかけて、モグーリスタン・ハン国のトゥグルク・ティムール・ハンが派遣した軍隊がマー・ワラー・アンナフルに侵入した。マー・ワラー・アンナフル各地で覇を争っていた領主たちはモグーリスタンの攻撃に対して団結して行動しようとせず、ティムールの叔父ハージーはホラーサーン地方に逃亡した。ティムールはトゥグルク・ティムールの軍隊の元に出頭し、アミールたちが退出した後にトゥグルク・ティムールと謁見した[38]。会見の場でティムール配下のサイフッディーンはトゥグルク・ティムールにティムールの才能を列挙し、主君をハージーに代わる指導者に推薦した[38]。会見の後にティムールはハージーに代わるバルラス部の指導者の地位を与えられ、キシュの統治を認められた[39]。しかし、ハージーがホラーサーンから帰還すると部族民のほとんどはハージーを支持に回り、ティムールも指導者の地位を返還してハージーに仕えた[40]

1361年の3月から4月にかけてトゥグルク・ティムールは自ら軍を率いて再びマー・ワラー・アンナフルを攻撃、ジャライル部のバヤジドとスルドゥズ部のバヤンはモグーリスタンに降伏する。降伏したバヤジドとバヤンは処刑され、それを知ったハージーは再びホラーサーンに逃亡するが、逃走中にサブゼヴァール(英語版)(現アフガニスタン・イスラム共和国ラザヴィー・ホラーサーン州にある都市)の住民に殺害される[41]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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