ティムール
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イラン、シリア、中国から呼び寄せた職人も加わってサマルカンドの手工業は発達するが[4]、人材の流出を防ぐために職人の中央アジア外への移動は厳しく制限されていた[244]

また、サマルカンドが発展した一方で、ティムールによって多くの人材が連行されたダマスカスでは数世紀にわたって技術と文化の発展が停滞した[172]
伝記史料アフマド・イブン・アラブシャー(英語版)によるティムールの伝記

ティムールの存命中、彼の伝記を編纂する計画が一度持ち上がったが、その大仰かつ過剰な記述と表現を嫌ったティムールによって却下された[245]

1424年頃にヤズド出身のサラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)が著したペルシア語の年代記『勝利の書(ザファル・ナーマ(英語版))』は、ティムールと孫のハリール・スルタンの事績を記している。ティムールの事績が誇張されている箇所も存在するが[246]、宮廷資料を使って具体的な事実を記録している点で他の伝記より優れていると考えられている[247]16世紀初頭にシャイバーニー朝の君主クチュクンジ・ハーン(ロシア語版、カタルーニャ語版)(在位:1510年 - 1531年)の命令によって『ザファル・ナーマ』はチャガタイ語に訳され、さらに諸言語に訳された[247]

また、15世紀初頭にはヤズディーの『勝利の書』と同名の年代記がニザーム・アッディーン・シャーミー(英語版)によって編纂されている。シャーミーの『勝利の書』は1402年から1404年の間にティムールの命令によって編纂が開始された史書であり、ティムールの考えが反映されている信頼性を評価されている[248]。しかし、以前に別の伝記が大言壮語を含む記述によって却下された経緯により、記述は簡素で情報量はやや少ないものとなった[249]

ダマスカス出身のアフマド・イブン・アラブシャー(英語版)は12歳のときにサマルカンドに連行され、ティムールが亡くなるまで2年の間を彼と生活を共にした[204]。アラブシャーは後年ティムールの伝記を記し、その記述は彼の才能を認めながらも、また憎しみも含んでいた[204]

時代は下り、1627年ムガル帝国シャー・ジャハーンに、ティムール自身が41歳までの前半生を記した自伝『ティムール法典』(Tuzk-e-Taimuri、"Memoirs of Temur")が献呈された。1610年にオスマン帝国のイエメン総督ジャアファル・パシャの図書館で発見されたもので、アブーターリフ・アル・フサイニーがチャガタイ語からペルシア語に訳した[250]。『ティムール法典』は英語、フランス語ロシア語など多くの言語に翻訳されたが[251]、チャガタイ語の原本は確認されておらずティムール朝の記録でも自伝の存在は確認できない[250]。実際にティムールが編纂に携わったか否かについては議論が分かれているが、後世に書かれた偽書と仮定しても、ムガル帝国時代の事情が反映されている史書としての価値を評価されている[250][251]
ヨーロッパ人が見たティムール1561年より前にヨーロッパで描かれた画。ヨーロッパの歴史家はティムールが捕虜にしたバヤズィト1世を馬に乗る踏み台にし、鳥籠のような檻に入れて連れ回したという、オスマン帝国への敵意に満ちた虚構を事実として記した[252]。この場面はマーロウの『タンバレイン大王』でも再現されている。

ティムールはルネサンスから近代にかけてのヨーロッパ世界に強烈な印象を与えた[253]。15世紀のヨーロッパの人々はティムールの事績に魅了され、また恐れを抱いた[254]

15世紀のヨーロッパには、ティムールの急速な勢力の拡大と各地での残虐行為に対して不安を抱いた人間と、ティムールをヨーロッパ世界の同盟者として歓迎する人間が混在していた[255]。アンカラの戦いでティムールがバヤズィト1世を破った時、彼がオスマン帝国の手からキリスト教徒を守るために戦ったと思って称賛の言葉を送る者もおり、フランス王シャルル6世やイングランド王ヘンリー4世は彼を同盟者と見なしていた。オスマン帝国の勢力が減衰したためにキリスト教国の商人が中東での商業活動を続けることができ、ティムール軍が商人の帰国を支援したため、シャルル6世とヘンリー4世はよりティムールに信頼感を抱いた。キリスト教徒の中には、ティムールが中東での巡礼の安全を確保するために戦ったと考えた者もいた[256]

一方で、ティムールをヨーロッパ文明とキリスト教の両方を破壊する蛮族と見る国もあった。ティムールの台頭に対して、カスティーリャ王エンリケ3世のように個人的に使者を送り、情報の収集と同盟の締結を図った君主もいた。また、戦争を回避するためにティムールのキリスト教への改宗が試みられたこともあった[257]

16世紀末のイギリスの作家クリストファー・マーロウは、1587年にティムールの生涯を題材とした戯曲『タンバレイン大王』を発表した。この戯曲でマーロウは、ティムールを既成の価値観を打破する英雄として描き上げている[258]。16世紀のヨーロッパで書かれた物語性の強い歴史書が戯曲の下敷きとなっているため、タンバレイン大王と史実のティムールの生涯には大きな相違がある[259]
禁断の棺ミハイル・ゲラシモフがレイアウトされたソ連のコイン

1941年ソビエト連邦ミハイル・ゲラシモフらの調査隊によってグーリ・アミール廟のティムールの遺体の調査が行われた。


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