1403年3月、ティムールが後継者と考えていたムハンマド・スルタンが夭折する。孫の死を知ったティムールは嘆きの声を上げた[185]。祈祷を終えた後に遠征が再開されたが、有能な後継者の死はティムールの精神状態に大きな影響を与えたと言われている[186]。同年にコーカサスのカラ・バーグで一族に帝国の領土を分配した[183]。
1404年8月にサマルカンドに帰国。留守中にサマルカンドで不正を行っていた役人と商人を処罰し、政務の合間を縫って建築事業を執り行った[187]。同年夏、カスティーリャ王エンリケ3世からの返礼の使節として[188]ルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホらがサマルカンドの宮廷を訪れた。クラヴィホが面会した当時のティムールは視力が落ちており、目の上に瞼が垂れ下がりほとんど目を開けられなかったという[189]。また、この時に明朝[190](あるいは北元[191])の使節がクラヴィホ一行に同席していたが、ティムールと廷臣は明の使節を侮辱し、彼らへの貢納を拒否した。
最期ティムールが葬られたグーリ・アミール廟
帰国後、ティムールは明国への遠征計画を再開する。明遠征の準備は西アジアでの征服事業が一段落した1397年末より進められており[192]、この遠征は異教徒に対する「聖戦」と位置付けられた[193][194]。
ティムールの東方遠征の真意については、単に戦利品が目的[193]、明ではなくモンゴル高原が遠征の目的地だった[191]、当時ティムールの元に亡命していた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就けて全モンゴルへの影響力を有する意図があった[191]と諸説ある。
遠征を前にしてティムールは国内の有力者とサマルカンドの全住民を招待しての大規模な孫の結婚式を開き、同時に罪人たちに刑を下した[195]。式が終了する前になり、全ての貴族の前で亡くなったムハンマド・スルタンの弟であるピール・ムハンマドを後継者とすることを宣言した[195]。
1404年11月27日にティムールはサマルカンドを出発して東方遠征に向かう[196]。進軍中にティムールは和解を求めるトクタミシュの使者と遭遇し、寛大な態度でトクタミシュに援助を約束した[197][198]。この年は気候が悪く、1月にサマルカンドから400km離れたオトラルにようやく到達することができたものの、ティムールは病に罹っていた[199]。
配下から寒さで士気の下がった兵士のために宴会を開くことが提案され、3日におよぶ宴会が催された。ティムールは病身にもかかわらず酒を飲み続けたがついに倒れ、崩御の時期が近づいていることを悟る[200]。
病床の周りに集まった王子と貴族に、孫のピール・ムハンマドを後継者とすることを告げ、彼らに遺言を守ることを誓わせた[200][201][202]。1405年2月18日にティムールはオトラルで病により崩御した[180][200][203]。崩御する直前、「アッラーのほかに神は無し」と言い残した[203]。
香水と香料がかけられたティムールの遺体は装飾された担架に乗せられ、密かにサマルカンドに搬送された[203]。しかし、ティムールの崩御を知った王族たちは、ピール・ムハンマドを後継者とする遺言に背いて王位を主張する。崩御から5日後、ティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に安置された[200][注 5]。
3月18日にサマルカンドを占拠したハリール・スルタンによって改めて正式な葬儀が行われ、全てのサマルカンド市民が黒い喪服を着用した[200]。葬儀のとき、ティムールが生前に愛用していた太鼓が廟に運び込まれ、他の人間が使用できないように引き裂かれた[200]。