ティムール
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12月13日[141]、デリーから出撃した軍隊との会戦の前に捕虜の反抗を危惧したティムールは[142][143][144]100,000人に及ぶヒンドゥー教徒の捕虜を処刑した[7]。12月17日[145](あるいは18日[146])にティムール軍はトゥグルク朝のスルターン・マフムードが指揮する軍隊と交戦する。戦闘に際してティムールは敵側の戦象に対して入念な方策を巡らせていた。騎兵の活躍によって戦象は壊滅し、トゥグルク軍は敗走した[147]

デリーに入城したティムールは12月20日に占有を宣言し、戦勝を祝う祝宴を開いた[148]。デリー入城後、ティムール軍の兵士は城内で破壊と略奪を行い、さらに抵抗する住民を殺害した[149][150]。ティムールはデリー滞在中に120,000頭に及ぶ戦象と儀礼用の象の行進を見て楽しみ、それらの象をサマルカンド、ヘラート、タブリーズなどの帝国領の都市に持ち帰った[151]

翌1399年1月にティムールはデリーを出発して帰国、かつてチャガタイ・ハン国のタルマシリンが陥落させることができなかったメーラトを攻略した[152]。ティムールは非イスラム教徒を弾圧しながら北上し、1399年3月末にマー・ワラー・アンナフルに帰還した[153][154]

このインド遠征においては、異教徒との戦いが大義名分とされ[155]、ティムール朝の歴史家サラーフッディーン・アリー・ヤズディー(英語版)はインド遠征には宗教的な道義があったと述べた[156][133]。しかし、バルトリドなどの後世の研究者の多くはインド遠征に宗教的な理由があったことに否定的な見解を示している[157]。このインド遠征の背景にはインドの都市が有する財貨があると考えられており[123][155][158]、ティムールは遠征によって約100,000人の兵士の給料に匹敵するほどの財宝を獲得したと言われている[151]。研究者の中には、インド遠征に政治的必要性は無いとの指摘もある[159]
七年戦役ティムールとマムルーク軍の戦闘

1399年にバルクークが没すると、それを知ったティムールは再び西方に軍を進める[123][160][161]。また、インド遠征の前にアゼルバイジャンに派遣していた王子ミーラーン・シャーから老齢を理由として退位を勧める書簡がティムールの元に送られていた[162]。インド遠征中(あるいは終了直後)にミーラーン・シャーは自身が後継者に指名されていないことを不服として、任地のアゼルバイジャンで反乱を起こす[163]。インドから帰還して間も無く、「七年戦役」と呼ばれる戦役が始まった[164]

ミーラーン・シャーの反乱に対しては、ティムール自らが鎮圧の指揮を執った[132]。さらに、敵対する動きを見せたグルジアに対して報復の攻撃が行われた。インドから帰還してすぐのエジプトへの進攻に、配下の将軍たちは疲労を訴え出て休養を懇願したが、ティムールは敵が団結する前に機先を制するべきだと遠征に打って出た[165]。ティムール軍はアンティオキアを経由してシリアに進み、ティムール軍を目撃したマムルーク軍の斥候は「悪魔」が襲来したと報告した[166]オスマン帝国のスルターン・バヤズィト1世はティムールとの戦闘に積極的な姿勢を示していたが、当時マムルーク朝とオスマン帝国はマラティヤの領有を巡って対立していたため、マムルーク朝はオスマンの力を借りずに単独でのティムール軍を迎撃した[160]

進軍の速度を速めるためにティムール軍の進路にある都市には降伏を促す使者が送られ、ホムスなどの都市が無血開城をした。同年11月1日[161]、ティムール軍は抵抗の意思を示したアレッポを開戦からわずか4日で攻略した。アレッポ攻略後にダマスカスに進軍を続け(ダマスカス包囲戦 (1400年))、マムルーク軍の士気を低下させるために流言を撒いた[167]。マムルーク朝のスルターン・ファラジュは降伏を拒絶し、ティムールの元に刺客を放つが、暗殺は未遂に終わった[168]。12月から翌1401年1月にかけて野戦が行われるが、ティムール軍とマムルーク軍は双方とも損害を受け、ティムールはファラジュに和平を提案した[169]

ファラジュの軍がエジプトで起きた反乱を鎮圧するためにダマスカスから脱出すると、ティムールは一計を案じて市民に和平を提案し、ダマスカスの守将の反対が押し切られて使節団が派遣された[170]。この時派遣された使節団には歴史家イブン・ハルドゥーンが加わっており、ティムールはハルドゥーンを30日以上陣営に留め置いた。ティムールの要求によってダマスカスの城門が明けられると兵士が城内に流れ込んで略奪を行い、ティムールは太守の邸宅と内城を占領する。3月17日にダマスカスで大規模な破壊が行われた後[171]、3月19日に熱病から回復したティムールはダマスカスから退去した[172]。破壊されたダマスカスは飢饉と疫病に襲われ、ティムールの名前は市民に忌み嫌われた[173]

ダマスカス退却後、ティムール朝とマムルーク朝との間に休戦協定が締結される。ダマスカスを発ったティムールは、アフマドによって奪還されたバグダードに進軍した。この時アフマドはバグダードにおらず、バグダードの守将が降伏を拒否したために包囲が布かれた。同年6月にバグダードを再占領すると大規模な虐殺が行われ、死者の首を積んだ120の塔ができたという[7][174]
オスマン帝国との対決バヤズィトの元を訪れるティムール(1878年のスタニスラウ・チュレボウスキによる画)フランス王シャルル6世がティムールに宛てた親書

エジプト遠征の開始前に遡る1399年にスィヴァスがオスマン帝国の皇子スレイマンに占領され、ティムールに従属していた黒羊朝がオスマンの攻撃を受けていた。この時にティムールはオスマン帝国のスルターン・バヤズィト1世に捕虜の返還を要求したが、バヤズィトは侮蔑の意をもって返答した[175]

ティムールがダマスカスに滞在している間、アフマドと黒羊朝のカラ・ユースフ(英語版)がバヤズィト1世に働きかけ、ティムール朝の影響下に置かれていたアナトリアの都市エルズィンジャンがオスマンの支配下に入る[176]。また、オスマン帝国によって滅ぼされたベイリクの君主たちの多くがティムールに助けを求めていた[177]

1402年にティムールはグルジア南部に進み(ティムールのグルジア侵攻(英語版))、バヤズィトに降伏を迫った。ティムールはオスマン帝国との戦いに先立ってイスラム教徒の支持を取り付けるためにバヤズィトを誹謗する流言を流し、その上でエルズルムを攻略した。バヤズィトの元から降伏を拒む書簡が届けられるとティムールは使者を追い返し、アンカラに向かった。1402年7月20日のアンカラの戦いでティムールは勝利、ティムール軍はバヤズィトと彼の皇子ムーサーを捕虜とした。捕虜となったバヤズィトがティムールの元に連行された時、ティムールは王子シャー・ルフとチェスを指していたと伝えられている[178]


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