1376年から1377年にかけて、ティムールは5度目のモグーリスタン遠征を行う。1379年にティムールがモグーリスタンへの遠征に出ている最中、スーフィー朝のユースフがマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド近辺を略奪した。ユースフに一騎討ちを申し込まれたティムールは挑戦を受けて立ったが、怯んだユースフは決闘の場所に現れず、家臣に蔑視されたユースフは憔悴のうちに没した[74]。3か月の包囲の末にティムールはウルゲンチを攻略、ユースフを支持した一部の住民を虐殺した[74]。 1381年以降にティムールは定住文化が定着したペルシアの都市に対して積極的に遠征を行い[84]、「チャガタイ家にペルシア(イラン)の統治権を奉げる」ことを名分として掲げる[85]。当初のペルシア遠征の目的は領土の拡大ではなく、現地の政権を保護国化することにあった[86]。ほかに本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの発展に必要な家畜などの可動財産と労働力の獲得という経済的な理由、戦利品の分配による配下の忠誠心の維持がペルシア遠征の動機にあったと考えられており、ティムールは遠征に際して情報の収集を入念に進めていく[87]。 1380年に開催したクリルタイで、ティムールはホラーサーン地方の王朝クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーを招集するが、ギヤースッディーンはクリルタイに出席しなかった。1381年にティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。ティムールはヘラートの攻撃前、住民に生命と財産の安全を保障したが占領後に重税を課し、さらに住民の蜂起を危ぶんで塔と城壁を破壊した[88]。この時にヘラートのウラマー(神学者)、イマーム(指導者)がティムールの故郷であるキシュに連行され、装飾された門扉もキシュに持ち運ばれた[89]。1383年にヘラートの住民がティムール朝の徴税人を襲撃すると、見せしめとして王子ミーラーン・シャーによる虐殺が行われる[90]。反乱の責任はサマルカンドに連行されていたギヤースッディーンをはじめとするクルト朝の王族にものしかかり、彼らは処刑された[91][90]。ギヤースッディーンらの死によって、1383年にクルト朝は滅亡した[92]。 ティムールはさらにホラーサーンの西に進み、同1381年にサブゼヴァール
ペルシアへの遠征
1383年にスィースターン、1384年初頭にカンダハルを征服し、アフガニスタン全域がティムール朝の支配下に入った[94]。1385年にイラクに存在したモンゴル系国家ジャライル朝の首都ソルターニーイェを占領、同年にマーザンダラーンを制圧した後にティムールはサマルカンドに帰還した。
帰国後およそ1年の間、ティムールは内政と軍備の増強に力を注いだ[95]。 1386年より、ジョチ・ウルスの拡大を牽制することを目的とした、「三年戦役」の名で知られる西アジアへの遠征事業が始められる[92]。 1386年にティムールはタブリーズを攻略するが、タブリーズはすでにトクタミシュによって破壊されていた[96]。ジャライル朝が支配するアゼルバイジャンを支配下に加え、グルジア王国の首都ティフリスを攻撃するが、頑強な抵抗に遭って攻略には至らなかった(ティムールのグルジア侵攻
三年戦役
1386年から1387年にかけての冬、ティムール軍の先遣隊はダゲスタンでトクタミシュの軍隊に遭遇する[96]。両軍は交戦するが、勝敗が決しないうちにトクタミシュは退却し、コーカサスの北に引き上げた。この背信行為にもかかわらず、ティムールはトクタミシュに寛大に接し、彼に兵糧と共に和解を提案する書簡を送った[96]。しかし、トクタミシュにとってはティムールの温情は屈辱でしかなく、ティムールを攻撃するための準備に取り掛かった[99]。
1387年、ティムールはロレスターンを拠点とする強盗団の討伐隊を自ら指揮し、捕らえた賊徒を断崖から突き落とした[100]。