ティムール
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ヒジュラ暦736年シャアバーン月25日火曜日の夜[21]1336年4月8日[22][23][24][25][26]/4月9日[23])にサマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村でバルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれる[注 1][注 2][注 3]。後世の史書ではタラガイ、ティムール父子はチンギス・カンからチャガタイに王傅として与えられたバルラス部の千人隊長カラチャル・ノヤンの子孫であるとされるが、カラチャルからタラガイに至る人物は同時代史料に記述のない者ばかりであり、史実かどうか疑わしいと考えられている[27]。バルラス部はマー・ワラー・アンナフルを支配するモンゴル人の国家西チャガタイ・ハン国(ブルガリア語版、wikidata)[28]に属し、モグーリスタン(東トルキスタン)を支配する東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)と対立していた。

幼少期と青年期のティムールの動向について記した信憑性の高い記録は極めて少ない[23]。バルラス部の傍流の出身である父タラガイの家は裕福とは言い難く[29]、ティムールに従う従者はわずかに4、5人[30]、あるいは10人ほどだった[31]。若年期のティムールは乗馬と弓術を学び[9]、ペルシア語とテュルク語に加えてモンゴル語を話すことができた[32]。早くに実母を亡くしてタラガイに育てられ、狩猟、家畜の見張りに携わっていた[33]。やがて、ティムールの人望と能力に惹かれたためか、彼の周りに様々な出自の人間が集まり始める[34]。クラヴィホの報告、アラブシャーの伝記によると、若いティムールは数人の部下を連れて略奪行為を行っていたという[23]。ティムールは気前よく戦利品を分け与えたために部下の数は増え、強盗団の数は300人にまで増えたと伝えられている[35]

やがてティムールは西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンに見いだされ、20歳にならないうちにカザガンの側近に登用される[36]。この時にティムールはカザガンの孫アミール・フサインと親密になる[36]1358年頃にカザガンが暗殺され、カザガンの子アブドゥラーフが失脚すると、統制を失ったマー・ワラー・アンナフル各地に貴族(アミール)たちが割拠した[37]

キシュを中心とするカシュカダリヤ地方 - バルラス部のハージー・ベク(英語版)。ティムールの叔父にあたる人物。

ホジェンドを中心とするフェルガナ地方 - ジャライル部のバヤジド

カーブル - カザガンの孫フサインが率いるカラナウス部族

バルフ - スルドゥズ部のオルジェイ・ブカ

この他にも、各地の都市でテュルク・モンゴル系の貴族や土着の勢力が割拠し、互いに争っていた。
ティムールの台頭

1360年の2月から3月にかけて、モグーリスタン・ハン国のトゥグルク・ティムール・ハンが派遣した軍隊がマー・ワラー・アンナフルに侵入した。マー・ワラー・アンナフル各地で覇を争っていた領主たちはモグーリスタンの攻撃に対して団結して行動しようとせず、ティムールの叔父ハージーはホラーサーン地方に逃亡した。ティムールはトゥグルク・ティムールの軍隊の元に出頭し、アミールたちが退出した後にトゥグルク・ティムールと謁見した[38]。会見の場でティムール配下のサイフッディーンはトゥグルク・ティムールにティムールの才能を列挙し、主君をハージーに代わる指導者に推薦した[38]。会見の後にティムールはハージーに代わるバルラス部の指導者の地位を与えられ、キシュの統治を認められた[39]。しかし、ハージーがホラーサーンから帰還すると部族民のほとんどはハージーを支持に回り、ティムールも指導者の地位を返還してハージーに仕えた[40]

1361年の3月から4月にかけてトゥグルク・ティムールは自ら軍を率いて再びマー・ワラー・アンナフルを攻撃、ジャライル部のバヤジドとスルドゥズ部のバヤンはモグーリスタンに降伏する。降伏したバヤジドとバヤンは処刑され、それを知ったハージーは再びホラーサーンに逃亡するが、逃走中にサブゼヴァール(英語版)(現アフガニスタン・イスラム共和国ラザヴィー・ホラーサーン州にある都市)の住民に殺害される[41]。トゥグルク・ティムールの元に出頭したティムールは、バルラス部の指導者の地位とキシュの統治権を再認された。また、トゥグルク・ティムールはティムールの才能を認め、マー・ワラー・アンナフルの統治者に任命した息子イリヤース・ホージャの後見人とした[42]。だが、理由は明らかではないがティムールは妻と少数の従者を伴ってイリヤース・ホージャの元から逃亡して山中に去った[43]
モグーリスタン・ハン国との戦い

ティムールはモグーリスタン軍に追われるアミール・フサインと合流し、わずか60人で1,000人からなるヒヴァの領主の包囲を突破、この時にティムールは自らの槍で領主を討ち取った[44]1362年にティムールとフサインはモグーリスタン軍に敗れて捕虜とされ、62日間をメルブで過ごした[45]1363年[45]、ティムールはスィースターンの領主との戦闘で負傷し、右手と右足に矢傷を負う。1364年に石橋の戦いでモグーリスタン軍に勝利、同年のキシュ近郊の戦いでイリヤース・ホージャに大勝し、モグーリスタン軍をマー・ワラー・アンナフルから放逐した[41]。勝利したティムールとフサインはクリルタイを招集してチャガタイ家のカーブル・シャーを新たな西チャガタイ・ハン国のハンに擁立し、ティムールとフサイン2人の共同統治体制が成立した[41][46]

1365年春、トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したイリヤース・ホージャは雪辱を期してマー・ワラー・アンナフルに親征する。ティムールとフサインはチナズタシュケントの間でモグーリスタン軍を迎え撃った(泥沼の戦い)。ティムールとフサインは兵数でモグーリスタン軍に勝っていたにもかかわらず敗北し[47]、2人はバルフ方面に逃亡した。敗戦の責任を巡ってティムールとフサインの関係は悪化するが[48]、それでもまだ同盟関係は維持されていた[7]

他方、ティムール達に勝利したイリヤース・ホージャは守備兵がいないサマルカンドに向かって進軍を続けた。当時のサマルカンドは城壁と内城が再建されていなかったが[注 4]、サマルカンド市民の中にはモンゴルからの解放を掲げる「サルバダール運動(英語版)」(英語: Sarbedaran movement)を行う一団が存在していた[48]。サマルカンドに入城したイリヤース・ホージャの軍はサルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅し、さらに軍馬が疫病に罹って激減したためにマー・ワラー・アンナフルから退却した[41][49]


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