ティムール
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1394年1月(もしくは2月)に王子ウマル・シャイフがクルディスタンで戦死[120]。3月に孫のウルグ・ベクが誕生すると、ティムールは誕生を祝して反乱者に恩赦を与えた[119]。ティムールが反乱を鎮圧しながら東方に戻ると、防衛のためにシリアに駐屯していたバルクークもカイロに引き上げた。この年、マムルーク朝と黒羊朝の支援を受けたアフマドによってバグダードが奪還される。

1394年末にトクタミシュがデルベントを越えてティムール朝の領土で略奪を行うと、ティムールは遠征の準備を進めた[121]。1395年春にティムールは北に軍を進め、テレク川でトクタミシュと激突した(テレク河畔の戦い(英語版))。トクタミシュの兵士に囲まれたティムールは矢をすべて使い果たして槍を折りながらも敵兵を撃退し、助けの兵士が到着するまで持ちこたえる[122]。3日にわたる激戦の末にティムールは勝利を収め、部下の忠誠心はより高まった[122]。さらにドン川を遡ってモスクワ大公国とジョチ・ウルスの領土に侵入し、1395年から翌1396年にかけてサライアストラハンを破壊した。

テレク河畔での勝いとサライの破壊は、トクタミシュに決定的な一撃を与えた[123][124]。戦後、ティムールはマンギト部の有力貴族エディゲとジョチ家の王族ティムール・クトルクらがキプチャク草原に新たな政権を立てることを承認した[125][126]

1396年春にティムールはデルベントを経由して夏にサマルカンドに帰還し、五年戦役は終結した。1397年ごろにティムールはヒズル・ホージャの娘テュケル(トゥカル)を妃に迎え[111]、モグーリスタンと同盟を結んだ[127]。テュケルとの結婚に際して、ティムールは彼女を迎えるためにサマルカンド郊外に宮殿と庭園を造営した[128]。同年に孫のムハンマド・スルタンをモグーリスタンの統治に派遣して中国遠征の準備を進めるが、インド遠征によって中国への軍事活動はいったん中断される[129]
インド遠征ティムールとトゥグルク朝のスルターン・マフムードの戦闘

1398年から1399年にかけて、ティムールはインドに軍事遠征を行った。

1397年末よりアフガニスタンを統治していた孫のピール・ムハンマドにインドへの攻撃を命じていたが[130]、ピール・ムハンマドがムルターンの攻略に苦戦していたためにティムールは親征を決定した[129][131][132]。遠征においては92,000人の兵士を動員し、それを3部隊に分けて進軍した[133]

ソユルガトミシュの跡を継いだチャガタイ・ハンであるスルタン・マフムードを左翼軍の司令官として南下させ[134]、ティムール自身は後方の安全を確保するためにヒンドゥークシュ山脈(現在のヌーリスターン州に相当する地域)を根城とする賊徒の討伐を指揮した[133][135]。氷雪が積もる高山の進軍は困難なものとなり、盗賊団が立て籠もる山城の攻略では配下の将兵の士気が萎縮していた[136]。ティムールは山賊の討伐を諦めず、山城の包囲が無益であると説得した軍師ムハンマド・コアギンの地位を剥奪したことがアラブシャーによって記録されている[137]。奮い立った兵士たちによって山賊は殲滅された後、ティムールは遭遇する敵対勢力を撃破しながらカーブルに移動した。インド行軍中にアフガニスタン各地の反乱勢力が討伐されたことは治安の回復と交通路の確保につながり、ティムール朝のアフガニスタン方面の支配が強化された[138]

一方、ピール・ムハンマドはムルターンを制圧した後に洪水で軍馬を失っており、インドの領主たちから包囲を受けていた[139]。ティムールはピール・ムハンマドと合流し、10月に彼の部隊を本隊に組み入れてあらためてデリーに進軍した[140]

12月13日[141]、デリーから出撃した軍隊との会戦の前に捕虜の反抗を危惧したティムールは[142][143][144]100,000人に及ぶヒンドゥー教徒の捕虜を処刑した[7]。12月17日[145](あるいは18日[146])にティムール軍はトゥグルク朝のスルターン・マフムードが指揮する軍隊と交戦する。戦闘に際してティムールは敵側の戦象に対して入念な方策を巡らせていた。


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