ティムール
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決められた数の首を持ってくるように命令された兵士によって70,000人の首が集められ、それを積み重ねた塔が建てられた[101][102]。ティムールはムザッファル朝君主シャー・シュジャーの甥シャー・ヤフヤーを傀儡の君主に据えて、属領とした[103]

1380年代中頃にペルシア東部がティムール朝の支配下に入る[89]
トクタミシュとの戦い詳細は「トクタミシュ・ティムール戦争(英語版)」を参照ティムールとトクタミシュの戦闘

1388年春にトクタミシュが本拠地のマー・ワラー・アンナフルに侵入したため、ティムールはやむなく西アジア方面での軍事活動を中断して中央アジアに帰還する[104]。王子ウマル・シャイフが指揮する守備隊はトクタミシュの猛攻を凌ぎきれずアンディジャンまで後退し、サマルカンドとブハラは包囲を受けた。30,000の騎兵がサマルカンドの救援に向かい、ティムール自身も小部隊を率いてキシュに駆けつけると、トクタミシュは草原地帯に退却した[105]

1387年(もしくは1388年)にトクタミシュはスーフィー朝の君主スレイマンに反乱を唆しており、扇動に応じたスレイマンは挙兵した[106][107]。モグーリスタンのカマルッディーンはトクタミシュと同盟して援助を受け[108]、さらにティムールの姻族にあたる貴族ハージー・ベクがホラーサーン地方で反乱を起こし、ティムールは最大の危機を迎える[109]

1389年、ティムールはカマルッディーンを討伐するための本格的な軍事行動を起こした[110]イリ川を渡ったティムールはモグーリスタンの中心部に至り、カマルッディーンとイリヤース・ホージャの兄弟ヒズル・ホージャを撃破してウイグルスタントルファン近辺にまで達した[110]1390年の7回目のモグーリスタン遠征でティムール軍はモグーリスタンからカマルッディーンを放逐し、新たにハンに即位したヒズル・ホージャと和平を結んだ[111]

ホラズム地方に軍を返したティムールはウルゲンチを占領し、スレイマンはトクタミシュの元に逃亡した。ウルゲンチの住民はサマルカンドに連行され、町は一部を除いて徹底的に破壊され、更地に大麦の種が蒔かれた[106]1391年のキプチャク草原遠征の直前にティムールはウルゲンチを復興させる命令を発した[106]。1391年1月にティムール軍はタシュケントを出発し、2月にティムールはクリルタイを開いて遠征に参加した将軍たちから計画の同意を得、彼らに軍令を発した[105]

2月5日、ティムールはウマル・シャイフが率いていた別動隊と共に、ホジェンドでトクタミシュ軍の前衛を撃破する。行軍の途上でジェズカズガン近辺にトクタミシュ討伐に向かう旨の碑文を建て、飢えと疲労に苦しみながらもトクタミシュに迫った[112]。同年6月18日にコンドゥルチャ川でティムールはトクタミシュを破る(コンドゥルチャ川の戦い)。この戦闘はトクタミシュに痛手を与えたが、まだ彼は再起するだけの力を残していた[92][113]
五年戦役

1392年、トクタミシュを破って間も無くティムールは西アジア遠征を再開する。この戦役は「五年戦役」と呼ばれる[7]。遠征の前、ティムールはイラン全土の支配権はチンギス・ハーンからチャガタイの子孫に与えられたという名分を掲げ、イラン支配の正当性を主張した[114]

戦役の最初、ティムールはマーザンダラーンに残っていた未征服の都市を占領した。ムザッファル朝への攻撃が再開され、シーラーズに向かうティムールをシャーヒ・シュジャーの甥シャー・マンスールが迎撃した。1393年5月にティムール軍とシャー・マンスールはシーラーズ近郊で交戦、戦闘の混乱の中で親衛隊からはぐれたティムールはシャー・マンスールに肉迫され、頭を2度切りつけられる危機に陥る[115]。シャー・マンスールは主君の危機に気が付いた兵士によって殺害され、ティムール軍は勝利の後にシーラーズを占領した。当初ティムールはムザッファル朝の王族を厚遇していたが後に彼らを処刑し、ムザッファル朝の領土を併合した。

ジャライル朝のスルターン・アフマドから服従を拒否する書簡が送られると、ティムールはアフマドの本拠地バグダードを攻撃するためさらに西進を続けた。ティムール軍の接近を知ったアフマドはエジプトに逃亡し、バグダードはティムールの支配下に入った。バグダード占領後にティムールはバグダード北部で跋扈していた盗賊団の討伐に向かい、城壁の破壊と地下トンネル建設のために72,000人の兵士を動員したという[116]。砦を陥落させた後、犯罪者への見せしめとして盗賊団の生首を重ねた塔が建てられた[116]

バグダードの陥落後、ティムール軍の中で黒羊朝との戦いに敗れて撤退していた一団がマムルーク朝の捕虜となる。ティムールは捕虜の釈放を要求するが、マムルーク朝のスルターン・バルクークは要求の裏にあるティムールの意図を疑って、エルテナ侯国、オスマン帝国、黒羊朝、ジョチ・ウルスに同盟の結成を呼び掛けた[117]。ジャライル朝のアフマドがカイロに亡命するとバルクークは彼を歓待し、ティムールとバルクークは書簡を通して互いを挑発しあった[118]。しかし、グルジアとアゼルバイジャンでの反乱、トクタミシュ討伐の準備のために、五年戦役ではエジプトへの遠征は決行されなかった[119]


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