ティムール
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注釈^ ティムールの生年を「ヒジュラ暦736年シャアバーン月25日火曜日の夜」とするティムール朝の歴史家ヤズディーの記述とは別に、スルターニーヤに駐在していたドミニコ修道会説教兄弟団の大司教ジャン、ティムールのダマスカス包囲当時に町に滞在していたイタリア人商人ミニャネッリ、ダマスカス出身の歴史家イブン・アラブシャーらの記録に現れるティムールの年齢から生年を逆算すると、ティムールは1320年代後半に生まれた計算になる。(川口『ティムール帝国』、25頁)
^ シャーミー、ヤズディー、ハーフィズ・アブルーらティムール朝の歴史家はティムールの生地をアジギ村とし、別の史料ではニヤーズィー村と記されているが、アジギとニヤーズィーはいずれも「贈物」を意味する言葉であるため、研究者の川口琢司はホージャ・イルガル、アジギ、ニヤーズィーを同一の村落であると推定している。(川口『ティムール帝国』、25-26頁)
^ アラブシャーの著したティムールの伝記、ティムールの存命中に民間に広まっていた伝聞を基にしたロシアの年代記には、ティムールは鍛冶屋の家の生まれと記されている。(加藤九『中央アジア歴史群像』、92頁)
^ 13世紀初頭までサマルカンドには城壁と内城が存在していたが、1220年チンギス・ハーンによって破壊された。(C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)、203-206頁)14世紀のタルマシリン・ハンの治世にチャガタイ・ハン国を訪れた旅行家イブン・バットゥータは、城壁や建築物の大部分が破壊されたままのサマルカンドの様子を記述している。(イブン・バットゥータ大旅行記』4巻(家島彦一訳注、東洋文庫平凡社、1999年9月)188-189頁)
^ ラフマナリエフはオトラルとサマルカンドの距離を考慮して、5日後の2月23日にティムールの遺体がサマルカンドに到着したヤズディーの記録を疑問視している。(ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、125頁)

出典^ 川崎『チムール シルクロードの王者』、4頁
^ “世界初「ティムール歴史」完訳”. 東亜日報 (2020年8月12日). 2020年10月7日閲覧。
^ 加藤九『中央アジア歴史群像』、110頁
^ a b c d e 羽田「ティームール」『アジア歴史事典』6巻、422頁
^ 加藤九『中央アジア歴史群像』、113-114頁
^ 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史, 講談社, 2008年2月)、275頁
^ a b c d e f g ボイル「ティムール」『世界伝記大事典 世界編』6巻、277-279頁
^ a b 川口『ティムール帝国』、45頁
^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、62頁
^ 川崎『チムール シルクロードの王者』、126頁
^ クラヴィホ『チムール帝国紀行』、317頁
^ 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史, 講談社, 2008年2月)、278頁
^ a b c d 久保「ティムール帝国」『中央アジア史』、133頁
^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、63頁
^ 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史, 講談社, 2008年2月)、279頁
^ 北川、杉山『大モンゴルの時代』、372頁
^ 間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書 新書東洋史8, 講談社, 1977年8月)、159頁
^ 川口『ティムール帝国』、240頁
^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、14頁
^ 川口『ティムール帝国』、242-244頁
^ 川口『ティムール帝国』、24頁
^ 加藤和『ティームール朝成立史の研究』、166,169-170頁
^ a b c d 加藤九『中央アジア歴史群像』、91頁
^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、7頁

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