やがてティムールは西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンに見いだされ、20歳にならないうちにカザガンの側近に登用される[36]。この時にティムールはカザガンの孫アミール・フサインと親密になる[36]。1358年頃にカザガンが暗殺され、カザガンの子アブドゥラーフが失脚すると、統制を失ったマー・ワラー・アンナフル各地に貴族(アミール)たちが割拠した[37]。
キシュを中心とするカシュカダリヤ地方 - バルラス部のハージー・ベク(英語版)。ティムールの叔父にあたる人物。
ホジェンドを中心とするフェルガナ地方 - ジャライル部のバヤジド
カーブル - カザガンの孫フサインが率いるカラナウス部族
バルフ - スルドゥズ部のオルジェイ・ブカ
この他にも、各地の都市でテュルク・モンゴル系の貴族や土着の勢力が割拠し、互いに争っていた。 1360年の2月から3月にかけて、モグーリスタン・ハン国のトゥグルク・ティムール・ハンが派遣した軍隊がマー・ワラー・アンナフルに侵入した。マー・ワラー・アンナフル各地で覇を争っていた領主たちはモグーリスタンの攻撃に対して団結して行動しようとせず、ティムールの叔父ハージーはホラーサーン地方に逃亡した。ティムールはトゥグルク・ティムールの軍隊の元に出頭し、アミールたちが退出した後にトゥグルク・ティムールと謁見した[38]。会見の場でティムール配下のサイフッディーンはトゥグルク・ティムールにティムールの才能を列挙し、主君をハージーに代わる指導者に推薦した[38]。会見の後にティムールはハージーに代わるバルラス部の指導者の地位を与えられ、キシュの統治を認められた[39]。しかし、ハージーがホラーサーンから帰還すると部族民のほとんどはハージーを支持に回り、ティムールも指導者の地位を返還してハージーに仕えた[40]。 1361年の3月から4月にかけてトゥグルク・ティムールは自ら軍を率いて再びマー・ワラー・アンナフルを攻撃、ジャライル部のバヤジドとスルドゥズ部のバヤンはモグーリスタンに降伏する。降伏したバヤジドとバヤンは処刑され、それを知ったハージーは再びホラーサーンに逃亡するが、逃走中にサブゼヴァール ティムールはモグーリスタン軍に追われるアミール・フサインと合流し、わずか60人で1,000人からなるヒヴァの領主の包囲を突破、この時にティムールは自らの槍で領主を討ち取った[44]。1362年にティムールとフサインはモグーリスタン軍に敗れて捕虜とされ、62日間をメルブで過ごした[45]。1363年[45]、ティムールはスィースターンの領主との戦闘で負傷し、右手と右足に矢傷を負う。1364年に石橋の戦いでモグーリスタン軍に勝利、同年のキシュ近郊の戦いでイリヤース・ホージャに大勝し、モグーリスタン軍をマー・ワラー・アンナフルから放逐した[41]。勝利したティムールとフサインはクリルタイを招集してチャガタイ家のカーブル・シャー
ティムールの台頭
モグーリスタン・ハン国との戦い
翌1365年春、トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したイリヤース・ホージャは雪辱を期してマー・ワラー・アンナフルに親征する。ティムールとフサインはチナズ・タシュケントの間でモグーリスタン軍を迎え撃った(泥沼の戦い)。ティムールとフサインは兵数でモグーリスタン軍に勝っていたにもかかわらず敗北し[47]、2人はバルフ方面に逃亡した。