ツェサレーヴィチ
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パーヴェルはツェサレーヴィチよりも「大公」(ヴェリーキー・クニャージ)の称号で呼ばれることの方が多かった。大公とはリューリク朝時代のモスクワの支配者たちが、「ツァーリ」の称号を採用する以前に使っていた君主号である。1796年に帝位を継ぐと、パーヴェル1世はすぐに長男にツェサレーヴィチの称号を与え、翌1797年に定めた帝位継承法の中でツェサレーヴィチを帝位継承者の公式称号である、と規定した。コンスタンチン・パヴロヴィチ大公のみは1799年から兄アレクサンドル・パヴロヴィチ(1801年にアレクサンドル1世として即位)と並立する形でツェサレーヴィチの称号を与えられており、1825年に帝位継承権を放棄して弟のニコライ1世に帝位を譲った後もこの称号を保持していた。

コンスタンチン・パヴロヴィチの死後、ツェサレーヴィチの称号は1894年まで常に皇帝の最年長の息子にのみ与えられていたが、ニコライ2世は自分が息子を儲けるまでという条件付きで、すぐ下の弟ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公にツェサレーヴィチの称号を与えた。1899年にゲオルギーが死んだとき、ニコライ2世はまだ自分に息子が生まれていなかったにもかかわらず、ゲオルギーの次の弟で帝位継承権第1位のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公にはツェサレーヴィチの称号を与えなかった。1904年に生まれたニコライ2世の一人息子アレクセイ・ニコラエヴィチが、帝政ロシア最後のツェサレーヴィチとなった。
帝政廃止後

1924年よりロシアの亡命皇帝を自称していたキリル・ウラジーミロヴィチ大公は、長男のウラジーミル・ロマノフにツェサレーヴィチの称号を名乗らせていた。1997年からは、ウラジーミルの孫息子ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフが、その母親で帝位請求者のマリヤ・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァからツェサレーヴィチの称号を授けられた。ゲオルギー・ロマノフはこのツェサレーヴィチの称号で呼ばれることもあるが、大公の称号で呼ばれることが多い。

ロシア帝国が崩壊するまで、ロシア内外の多くの人々はロシアの支配者をツァーリと呼ぶ習慣を続けていた。ツェサレーヴィチの称号がロシア皇帝の後継者の称号として広く浸透せず、ツァレーヴィチ(ツァーリ)や大公の呼称の方が一般的なのは、このためだろうと考えられる。「ツェサレーヴィチ」の称号は、国内でも特に教養のない階層には知られていなかった。
歴代のツェサレーヴィチ

※太字は後に皇帝となった人物

パーヴェル・ペトロヴィチ(称号保持1761年 - 1796年)…皇帝パーヴェル1世

アレクサンドル・パヴロヴィチ(称号保持1796年 - 1801年)…皇帝アレクサンドル1世

コンスタンチン・パヴロヴィチ(称号保持1799年 - 1831年)

アレクサンドル・ニコラエヴィチ(称号保持1831年 - 1855年)…皇帝アレクサンドル2世

ニコライ・アレクサンドロヴィチ(称号保持1855年 - 1865年)

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(称号保持1865年 - 1881年)…皇帝アレクサンドル3世

ニコライ・アレクサンドロヴィチ(称号保持1881年 - 1894年)…皇帝ニコライ2世

ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ(称号保持1894年 - 1899年)

アレクセイ・ニコラエヴィチ(称号保持1904年 - 1917年)

関連項目

法定推定相続人

推定相続人

ロシア皇太子ハンデキャップ - イギリスの競馬の競走。ロシア皇太子が賞金を出したことに由来する。英語では単に「Cesarewitch」とも。


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