ツァーリ・ボンバ
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フルシチョフは1961年7月10日、第22回ソビエト連邦共産党大会開催中の10月下旬にこの爆発実験を行うよう指示を出した。その時点で実施日まで15週しかなかったが、実験に用いるAN602はすでに完成していた。

マレンコフとフルシチョフの外交政策により、当時の世界情勢は極めて緊迫した状態にあった。1961年8月のベルリンの壁建設開始、数か月前に発表されたソ連による核実験のモラトリアム中止、後のキューバ危機に結びつくキューバへの核配備計画実施などのためである。そのような状況下での実験は世界中を震撼させた。
設計

ツァーリ・ボンバ(AN602)は、ソ連初の水爆であるRDS-37の成功の後に開発されたRDS-202を元として開発された。RDS-202は1956年3月12日に、最大計算出力50Mt、直径2.1m、長さ8m、重量26トンで設計されたもので、同6月6日には38Mtに変更され、最終的には同年中に15Mtで製造され、1957年に実験が計画されていたものの実際には行われず保管されていた。これを分解してAN602に流用することが決定されたのは1958年7月の事であった。RDS-202は熱核モジュールの両端に2つの核分裂モジュールを配置する設計(バイファイラー方式)となっており、これはAN602にも継承される事となった。

AN602は、球状の巨大な熱核モジュールの両側に、2つの小型熱核モジュールが配置され、さらにそれらを起爆する合計1.5Mtの出力を持つ2つの核分裂モジュールが配置された。それらを精密に制御するために100ナノ秒以内の同期爆発を可能とするユニットが開発されている。AN602は本来、核分裂 - 核融合 - 核分裂という3段階の反応により100メガトンの威力を実現する多段階水爆(Staged Radiation Implosion Bomb)である。しかし、100メガトン級の爆発ともなればソ連領内の人口密集地へ多量の放射性降下物(死の灰)が降ってくることが予想されたため、実験にあたっては第3段階目のウラン238の核分裂を抑えるようにタンパーがに変更され、出力は50メガトンに抑制された。ソ連最高指導者のニキータ・フルシチョフは、「初めは100メガトンの予定だったが、モスクワのガラスが全部割れないように、出力を減らした」とジョークを飛ばした[2]。変更の結果、核出力の97%が核融合によるものとなり、放出される放射性物質の量はその出力の割にはかなり小規模なものとなった。

設計はソ連の核開発秘密都市アルザマス16ソ連科学アカデミーユーリ・ハリトンを中心とし、後に「ソ連水爆の父」とも呼ばれるアンドレイ・サハロフ、ヴィクトル・アダムスキー、ユーリ・ババエフ、ユーリ・スミルノフ、ユーリ・トゥルトネフなどのメンバーが参加した。サハロフはツァーリ・ボンバの爆発実験の後、核兵器反対を唱えるようになったという。
輸送機モニノ空軍博物館に展示されるTu-95ツァーリ・ボンバ投下機

ツァーリ・ボンバは高出力核爆弾の投下のために改修されたTu-95戦略爆撃機、Tu-95Vによって運搬・投下された。この改修は、RDS-202運搬のために1955年に改良されたTu-95Bを更に改良する事で、1956年5月から9月の間に行われ、モックアップ試験が1959年まで実施された。ツァーリ・ボンバの実験に際しては、熱線による被害を最小限に抑えるため特殊な白色塗料が塗られ、重量27トン、全長8メートル、直径2メートルと巨大なツァーリ・ボンバを搭載するために爆弾倉の扉と翼燃料タンクが取り外され、それでも収まらなかったので半埋め込み式で搭載された。Tu-95が当時のソ連爆撃機の中では最大級であったことからも、ツァーリ・ボンバの巨大さをうかがい知ることができる。
実験

パイロットはアンドレイ・ドゥルノフツェフ中佐(Андрей Егорович Дурновцев)であった。測定・撮影用にはTu-16Vが随行していた[注 1][3]

ツァーリ・ボンバには投下機が爆心地から45キロメートルほどにある安全圏へ退避する時間を与えるために重量800kgにも達する多段階の減速用パラシュートが取り付けられた。火球サイズの比較、中心から
ファットマン
ピースキーパー
ミニットマンT
キャッスルブラボー
ツァーリ・ボンバ

午前11時32分、ツァーリ・ボンバは北極海にあるソ連領ノヴァヤゼムリャ(73.85°N 54.50°E)のセヴェルヌィ島上空で投下された。投下高度は10,500メートルで、内蔵された気圧計[4]によると高度4,000メートル(海抜4,200メートル)に降下した時点で爆発した。地面に反射した衝撃波は高度10.5キロメートルに到達し、一次放射線の致死域(500rem)は半径6.6キロメートル、爆風による人員殺傷範囲は23キロメートル、三度の火傷を負う熱線の効果範囲は100キロメートルにも及んだと見られている。

高度4,000メートルで爆発したにもかかわらず、地震波のマグニチュードは5.0?5.25と推定された。強烈な放射線により現場では一時間通信が途絶し、爆心地から55キロメートル離れた煉瓦造りのセヴェルヌィ島の住宅(住民は全て避難していた)は屋根と扉と窓が吹き飛ばされ、数百キロメートル離れた木材で出来た住宅は全て破壊された。


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