チンドン屋
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東京では、じゃがたらなどで活動していた篠田昌已[88]、A-musikやルナパーク・アンサンブルで活動していた大熊ワタルらが、高田宣伝社で楽士としてチンドン演奏をはじめ、記録として『東京チンドンVol.1』を録音した[88]。篠田はコンポステラを結成し、音楽家としてチンドンで奏でられる音楽を取り入れる試みを続けるが、1992年に急逝する。大熊は、ソウル・フラワー・ユニオンソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と共に震災後の神戸などでも活動し、雑誌などでもチンドンに関する記事を執筆している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる、チンドン・アレンジのライヴ活動やCDリリース(『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』『デラシネ・チンドン』)が、若年層にチンドンを広めることにもなった。

これら新世代の活動はチンドンの存在を若い世代に伝え、既存業者の高齢化[89]と相まって、チンドン業界へ若い人材が参入する流れが生まれた。2001年に全国のチンドン屋の数は150人ほどとされる[90]。商店の宣伝が主要な仕事とはいえ、大企業のキャンペーンや町おこしのイベント、結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋はパフォーマンスを営業案内に含めることも多い[91][92][93]。CDを発売する取り組みなども見られる[94]

2000年に、林と東京の高田洋介はちんどん博覧会を始めた。富山のチンドン・コンクールによってチンドン屋業界の交流はあるが、組織化がなされていないことの打開を企図したもので[90][95]、林らによるとその趣旨は若手が中心となって実験的なパフォーマンスを行ったり、チンドン屋の存在を世間にアピールすることにある[96]。年に1回のペースで東京、大阪、福岡、東京と会場を移し、数年の間をおいて2007年にも東京で開催されている。
広告としての位置づけ

チンドン屋は路上で行われる音声広告であり、歩く野立て看板もしくはポスターPOP広告であり、広告請負業でもある[† 7]パン売 鈴木春風(1851 - 1913)の写本『世渡風俗図会』から。 大伏肇『資料が語る近代日本広告史』東京堂出版、1990からスキャン

音声広告は、売り声・かけ声および鳴物などの使用による広告の総称で、中世行商人大原女にさかのぼる[98]。江戸中期にはさまざまな工夫がこらされるようになり、文化・文政期の引札には口上が記録されることが多くなり、明和6年の引札には「トウザイトウザイ」の表現も現れる[99]。こうした口上は、歌舞伎にも取り上げられた[100]。売声だけでなく、派手な衣装で歌や踊りを披露し[101]チャルメラで個性を出した[102]。飴売がその声を売り物として東西屋となり[101]、依頼を受けて楽器演奏を行う民間吹奏楽隊と結びついてチンドン屋の母体となったと言える[62]。広目屋の秋田と東西屋の九里丸は実際に交流があり、大規模な楽隊広告では口上役と楽隊をそれぞれに依頼し、共同作業を行った[43]

屋外広告は明治10年代から活発化の兆候を見せており[103]、東西屋、広目屋の系譜に連ならない音声広告としては、明治19年の日本橋中嶋座の正月公演「大鼓曲獅子」(おおつづみまがりじし)の錦絵に太鼓を抱えて西洋菓子の宣伝をする姿が描かれているものがあり[104]、大正期には一人で喇叭を吹き太鼓を鳴らして宣伝をするオイチニの薬売などがあった[105]

明治初期の広告手段は、引札が中心で、1877年頃から新聞広告が増加する[106]。当初時事新聞専業の広告代理店として三世社らが起こり、1884年に複数の新聞を手掛ける代理店業に広目屋も参入した[107]。規模は異なるにしても、ほぼ並行して広告を請負う事業がはじまっていることになる[106]。明治後半の楽隊広告は大規模化し、楽士の派遣業も成立したが、昭和期に至るまで口上を主体とする宣伝業は個人での事業が中心であった。引札や新聞広告のほか、昭和に入って野外広告板、アドバルーンネオン管によるビルなどの広告が登場し、チンドン屋は地域密着型になっていったとされる[108]。古くは、九里丸が質屋の宣伝を請け負った際に大通りではなく路地を回って成功した例があり、小規模な業務形態で限定的な地域での宣伝については対費用効果が高かったことは戦後の復興の中で最盛期を迎えた理由の一つである[109]

類似した広告請負の形態としては、ジンタ(ヂンタ)[110]サンドイッチマンがある[111]。ジンタは広告楽隊、特に映画やサーカスの呼び込みの楽隊を指し、大正期から隠語として存在し昭和初期から徳川夢声が漫談などで用いるようになって広まった[112]。徳川や堀内敬三は、5人程度の規模の楽隊を指すものとしてこの語を用い、その衰退を嘆くが、ジンタの演奏家がチンドン屋に流入し、管楽器を含むチンドン屋が普及する時期とジンタの語が広まった時期が重なるため、両者が同一視されることもあった[110][113][114]加太こうじによると、明治末から大正にかけてまではチンドン屋からの依頼で小編成の楽隊、つまりジンタが演奏を行うことがあった。そうした関係は楽士がサイレント映画の伴奏を行うようになって解消したが、映画がトーキーへ移行すると、職にあぶれた楽士たちが再びチンドン屋と手を組み、あるいはチンドン屋を開業するようになった[115]。サンドイッチマンは、明治19年に既に現れ[116]、戦後も週刊誌を賑わせた。音楽や口上を伴わず特別な技能を必要としない点で異なるが、街頭宣伝ということで共通する。
チンドン屋の芸
口上
宣伝すべき内容を伝える役割として重視され、親方が担うことが多い
[5]。飴売ほか物売を祖とすることに加え、昭和初期には活動写真館の弁士、芝居役者なども流入したため、様々なスタイルが混じり合っている[117]
化粧と衣装
支度と呼ぶ[118]。多くは白塗で、カツラを着けた和装、着帽での洋装いずれにしても華美な衣装を纏う[119]。初期は化粧をせず、これは寄席芸人出身者がチンドンに流れてきたためと考えられる[120]。村芝居やサーカス出身者が多くチンドン屋業界に流入したことは歴史の節でも述べたが、カツラの着用は、東京では戦前からあったが、関西では戦後に青空宣伝社がはじめた[121]。和装の場合は、歌舞伎、大衆演劇の役どころを模し、洋装の場合はピエロに扮することが多いが、アニメなどのキャラクターを取り入れたり、着ぐるみを用いることもある[122]。チンドンコンクールなどでは、大がかりな扮装も見られ、戦車などを張りぼてで作った例もある[123]
寸劇
路上で寸劇を演じることもあり、昭和30年代頃には、10人ほどでチャンバラの立ち回りをすることもあった[124]


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