チンドン屋
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飴売がその声を売り物として東西屋となり[101]、依頼を受けて楽器演奏を行う民間吹奏楽隊と結びついてチンドン屋の母体となったと言える[62]。広目屋の秋田と東西屋の九里丸は実際に交流があり、大規模な楽隊広告では口上役と楽隊をそれぞれに依頼し、共同作業を行った[43]

屋外広告は明治10年代から活発化の兆候を見せており[103]、東西屋、広目屋の系譜に連ならない音声広告としては、明治19年の日本橋中嶋座の正月公演「大鼓曲獅子」(おおつづみまがりじし)の錦絵に太鼓を抱えて西洋菓子の宣伝をする姿が描かれているものがあり[104]、大正期には一人で喇叭を吹き太鼓を鳴らして宣伝をするオイチニの薬売などがあった[105]

明治初期の広告手段は、引札が中心で、1877年頃から新聞広告が増加する[106]。当初時事新聞専業の広告代理店として三世社らが起こり、1884年に複数の新聞を手掛ける代理店業に広目屋も参入した[107]。規模は異なるにしても、ほぼ並行して広告を請負う事業がはじまっていることになる[106]。明治後半の楽隊広告は大規模化し、楽士の派遣業も成立したが、昭和期に至るまで口上を主体とする宣伝業は個人での事業が中心であった。引札や新聞広告のほか、昭和に入って野外広告板、アドバルーンネオン管によるビルなどの広告が登場し、チンドン屋は地域密着型になっていったとされる[108]。古くは、九里丸が質屋の宣伝を請け負った際に大通りではなく路地を回って成功した例があり、小規模な業務形態で限定的な地域での宣伝については対費用効果が高かったことは戦後の復興の中で最盛期を迎えた理由の一つである[109]

類似した広告請負の形態としては、ジンタ(ヂンタ)[110]サンドイッチマンがある[111]。ジンタは広告楽隊、特に映画やサーカスの呼び込みの楽隊を指し、大正期から隠語として存在し昭和初期から徳川夢声が漫談などで用いるようになって広まった[112]。徳川や堀内敬三は、5人程度の規模の楽隊を指すものとしてこの語を用い、その衰退を嘆くが、ジンタの演奏家がチンドン屋に流入し、管楽器を含むチンドン屋が普及する時期とジンタの語が広まった時期が重なるため、両者が同一視されることもあった[110][113][114]加太こうじによると、明治末から大正にかけてまではチンドン屋からの依頼で小編成の楽隊、つまりジンタが演奏を行うことがあった。そうした関係は楽士がサイレント映画の伴奏を行うようになって解消したが、映画がトーキーへ移行すると、職にあぶれた楽士たちが再びチンドン屋と手を組み、あるいはチンドン屋を開業するようになった[115]。サンドイッチマンは、明治19年に既に現れ[116]、戦後も週刊誌を賑わせた。音楽や口上を伴わず特別な技能を必要としない点で異なるが、街頭宣伝ということで共通する。
チンドン屋の芸
口上
宣伝すべき内容を伝える役割として重視され、親方が担うことが多い
[5]。飴売ほか物売を祖とすることに加え、昭和初期には活動写真館の弁士、芝居役者なども流入したため、様々なスタイルが混じり合っている[117]
化粧と衣装
支度と呼ぶ[118]。多くは白塗で、カツラを着けた和装、着帽での洋装いずれにしても華美な衣装を纏う[119]。初期は化粧をせず、これは寄席芸人出身者がチンドンに流れてきたためと考えられる[120]。村芝居やサーカス出身者が多くチンドン屋業界に流入したことは歴史の節でも述べたが、カツラの着用は、東京では戦前からあったが、関西では戦後に青空宣伝社がはじめた[121]。和装の場合は、歌舞伎、大衆演劇の役どころを模し、洋装の場合はピエロに扮することが多いが、アニメなどのキャラクターを取り入れたり、着ぐるみを用いることもある[122]。チンドンコンクールなどでは、大がかりな扮装も見られ、戦車などを張りぼてで作った例もある[123]
寸劇
路上で寸劇を演じることもあり、昭和30年代頃には、10人ほどでチャンバラの立ち回りをすることもあった[124]

この他、成人の人形を前に抱え、背負われた子供を演じつつ人形を操作する「人形振り」など、独自の芸を持つ者もいる[125]
チンドン屋の音楽
編成と楽器

編成は、チンドン太鼓、楽士を基本として、3人から5人の編成で、ゴロス(大太鼓)、旗持を伴うことも多い[126]手前がゴロス、奥はチンドン太鼓右手側チンドン太鼓左手側
チンドン太鼓
チンドン太鼓は、下座音楽で用いられていた楽器である鉦(当たり鉦)、締太鼓、大胴を組み合わせて作られ[127]、身体に垂直となる向きで上に鉦と締太鼓、下に大胴を木枠にはめ込み、上部に、前部には屋号を書いた札を立てる形が一般的[128]。締太鼓、鉦、大胴のサイズは小さめ[129]で、とくに締太鼓はチンドン屋以外は用いないといわれるほど小さい[128]。ひもを肩にかけ、身体の前面にチンドン太鼓を固定する[128]。東京では、山の手のチンドン屋は締太鼓を大胴の下に地面に平行な向きで固定していたのに対し、下町では剣劇を行いながら歩くことが多く、締太鼓を上部に置くことになった[130]。昭和初期までは銅鑼を用いることもあった[131]。大胴と締太鼓を叩く際にはバチ、鉦を叩くには先端に鹿の角を付けた撞木を用いる[132]。リズムは細かく、囃子に歩調のリズムが合成されて生じたものと考えられる[133]
ゴロス(大太鼓)
ゴロスは、フランス語の大太鼓grosse caisseからの転[134]。ドラムと呼ぶチンドン屋もいる[135]。フランス式を採用していた帝国陸軍の軍楽隊の退役者が、映画館などで楽士となり、この語が広まったと推察される[135]。ゴロスは、紙芝居でも話の合の手として用いられており、戦後[136]、紙芝居からチンドン屋へ転業する際に持ち込まれたという意見がある[137][138][139]。チンドン屋のゴロス演奏に特徴的な点としては、左右で用いるバチの大きさが異なることが挙げられる[139]。三つ打「ドン・ドン・ドン・(休)」、七つ打「ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・ドン・(休)」といった単純なリズムを繰り返すことが多い[140]
楽士
主に旋律を担当する[141]。メロディを崩して演奏することが多い[141]。楽器としては、昭和初期あるいは戦前期から戦後間もなくにかけては三味線を使うこともあったが、戦後音量の大きなゴロスが普及すると、音量が小さい上に技量を要することが難点となり[136]、さらにマンボなど洋楽リズムの流行に伴い昭和30年代はじめまでに衰退し[142]、次第に管楽器がほとんどを占めるようになった[143]


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