チンドン屋
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昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や[75]、映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した[72]

チンドンのコンクールも開催されるようになった。東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋沼津姫路伊勢函館彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった[76]富山での「全国チンドンコンクール(1965年に全日本チンドンコンクールに改称)」は、2019年まで継続して開催された(2011年は東日本大震災のため、2020年から2022年までは新型コロナウイルスのため中止)。このコンクールは、全体を統括する組織がない中で、業界を「緩やかにつなぐ」役割を果たしている[77]

前年に富山産業大博覧会を終え、一時的に消費が冷え込んだ地元商店街の活性化と、観光客を招くため富山の宣伝を企図して、富山市と富山商工会議所が主催の「桜まつり」の催しとして始まり、42のチンドン屋が参加、平日昼間に行われたパレードには8万人が集まった[78]

「全日本チンドンコンクール」の記録では、1955年の第1回に42団体が参加、以後団体数は50前後を推移するが1972年から下降を始め、1981年には18団体まで減少する。その一方で、素人チンドンコンクールも始まり、そこからプロのチンドンマンに転進するものもみられ、その後プロ部門では30組前後の団体が出場している。

1960年半ば頃からは、テレビの普及などもあり、チンドン屋は「古くさい」ものとなってしまう[79]。さらに昭和30年代頃からスピーカーを通した宣伝広告が音響上の脅威となり、加えて自動車の交通量が増加し商店街や横丁をも通行するようになったことで、都市においてチンドン屋が活動できる空間は狭まった[80]

昭和40年頃から衰退を見せはじめ、1973年の石油ショック以後急激に数を減らし、数百人程度にまで落ち込んだが[81]、仕事自体は減っていなかったという証言も多い[82]
大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』(ビデオ) チンドン屋、早稲田大学の卒業式で(2015年)

1989年の昭和天皇崩御による自粛ムードは、ほぼ1年間チンドン屋の営業を不可能にさせたという[79][83]

しかし、1980年代後半から、「古くさいもの」「懐かしいもの」ではないチンドン屋へのアプローチが始まった。[要出典]

大阪では、1984年に林幸治郎がリーダーとして個人商店「ちんどん通信社」を旗揚げ[84][85]。林は立命館大学出身であり、マスコミから「学士ちんどん屋」と取り上げられた[86]。なお、1995年には法人化して有限会社東西屋となったが、引き続き「ちんどん通信社」名で活動を継続している[87]

東京では、じゃがたらなどで活動していた篠田昌已[88]、A-musikやルナパーク・アンサンブルで活動していた大熊ワタルらが、高田宣伝社で楽士としてチンドン演奏をはじめ、記録として『東京チンドンVol.1』を録音した[88]。篠田はコンポステラを結成し、音楽家としてチンドンで奏でられる音楽を取り入れる試みを続けるが、1992年に急逝する。大熊は、ソウル・フラワー・ユニオンソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と共に震災後の神戸などでも活動し、雑誌などでもチンドンに関する記事を執筆している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる、チンドン・アレンジのライヴ活動やCDリリース(『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』『デラシネ・チンドン』)が、若年層にチンドンを広めることにもなった。

これら新世代の活動はチンドンの存在を若い世代に伝え、既存業者の高齢化[89]と相まって、チンドン業界へ若い人材が参入する流れが生まれた。2001年に全国のチンドン屋の数は150人ほどとされる[90]。商店の宣伝が主要な仕事とはいえ、大企業のキャンペーンや町おこしのイベント、結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋はパフォーマンスを営業案内に含めることも多い[91][92][93]。CDを発売する取り組みなども見られる[94]

2000年に、林と東京の高田洋介はちんどん博覧会を始めた。富山のチンドン・コンクールによってチンドン屋業界の交流はあるが、組織化がなされていないことの打開を企図したもので[90][95]、林らによるとその趣旨は若手が中心となって実験的なパフォーマンスを行ったり、チンドン屋の存在を世間にアピールすることにある[96]。年に1回のペースで東京、大阪、福岡、東京と会場を移し、数年の間をおいて2007年にも東京で開催されている。
広告としての位置づけ

チンドン屋は路上で行われる音声広告であり、歩く野立て看板もしくはポスターPOP広告であり、広告請負業でもある[† 7]パン売 鈴木春風(1851 - 1913)の写本『世渡風俗図会』から。 大伏肇『資料が語る近代日本広告史』東京堂出版、1990からスキャン

音声広告は、売り声・かけ声および鳴物などの使用による広告の総称で、中世行商人大原女にさかのぼる[98]。江戸中期にはさまざまな工夫がこらされるようになり、文化・文政期の引札には口上が記録されることが多くなり、明和6年の引札には「トウザイトウザイ」の表現も現れる[99]。こうした口上は、歌舞伎にも取り上げられた[100]。売声だけでなく、派手な衣装で歌や踊りを披露し[101]チャルメラで個性を出した[102]。飴売がその声を売り物として東西屋となり[101]、依頼を受けて楽器演奏を行う民間吹奏楽隊と結びついてチンドン屋の母体となったと言える[62]。広目屋の秋田と東西屋の九里丸は実際に交流があり、大規模な楽隊広告では口上役と楽隊をそれぞれに依頼し、共同作業を行った[43]

屋外広告は明治10年代から活発化の兆候を見せており[103]、東西屋、広目屋の系譜に連ならない音声広告としては、明治19年の日本橋中嶋座の正月公演「大鼓曲獅子」(おおつづみまがりじし)の錦絵に太鼓を抱えて西洋菓子の宣伝をする姿が描かれているものがあり[104]、大正期には一人で喇叭を吹き太鼓を鳴らして宣伝をするオイチニの薬売などがあった[105]

明治初期の広告手段は、引札が中心で、1877年頃から新聞広告が増加する[106]。当初時事新聞専業の広告代理店として三世社らが起こり、1884年に複数の新聞を手掛ける代理店業に広目屋も参入した[107]。規模は異なるにしても、ほぼ並行して広告を請負う事業がはじまっていることになる[106]


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