チンドン屋
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大正期のチンドン屋は口上を主体とし、寄席の芸人からの流入、また、その周辺に位置した三味線弾きによって形成され[58][59]関東大震災後には物売業からの流入があったと推察される[60]商店開店祝いでのチンドン屋。1935年頃。現山梨県都留市

この時期には、旗持が独特の踊りをしながら歩くこともあった。[要出典]やや遅れて、衰退に向かったジンタの管楽器奏者を加えた形態が大正末頃から増え始め、トーキーの登場を機に失職した映画館楽士が流入し[61][62]管楽器入り編成が定着する[63]。この他、紙芝居や村芝居などからの流入があり[64]、前者はゴロス、後者は鬘などの導入に繋がったと思われる[65]。こうした転身者、とりわけ役者や芸人からの転身者はチンドン屋として生計を立てることに執着せず、他に条件のよい職業があれば廃業しても構わないと考えており、芸への執着が希薄であった。したがってこの時期のチンドン屋がみせたパフォーマンスは素人芸の水準にとどまる場合も多かったとされる[66]

文明開化の時代においては、東京の商店主が西洋音楽と軍楽隊退役者を結び付け、小さなブラスバンド「市中音楽隊」を作り(「楽隊」、「ジンタ」とも呼ばれた)、運動会など祭事の宣伝を行いはじめた。当時は芸術としての音楽に重きを置いたものであったが、これに目を付けた秋田柳吉が、本格的な宣伝業者に高めていった[67]

戦前の全盛期は1933年から38年頃とされる。1936年、鳩山一郎(戦後、内閣総理大臣)とテキ屋出身の市議会議員倉持忠助が選挙における票の取りまとめに利用しようとチンドン屋の組合(帝都音楽囃子広告業組合)を作ったが、その会員数は3000人に及んだという[68][69][† 6]

1941年になると、チンドン屋および各種大道芸は禁止された[71]
戦後復興期の流行と高度経済成長期の衰退

戦後の復興の中で、チンドン屋は勢いを取り戻した[72]。大規模な広告展開が困難な状況であった中で、少人数・小規模で小回りが利くチンドン屋の営業形態が時代に合っていたこと[73]、陽気な音楽や派手な衣装が求められたことなどが理由として挙げられる。特に関東ではパチンコ店からの仕事が多かった[74]。1950年にはチンドン屋人口は2500人に及んだとされる[74]。昭和20年代後半には、もともと忙しい時期が異なるために人的交流があったサーカス関係者や[75]、映画におされて芝居小屋が縮小したため、旅役者もチンドン界に流入した[72]

チンドンのコンクールも開催されるようになった。東京の新橋で1950年に行われたのが最初で、昭和30年代には、東京都内、前橋沼津姫路伊勢函館彦根など、全国各地でチンドンコンクールが開催された。多くのコンクールは継続しなかったが、1955年に始まった[76]富山での「全国チンドンコンクール(1965年に全日本チンドンコンクールに改称)」は、2019年まで継続して開催された(2011年は東日本大震災のため、2020年から2022年までは新型コロナウイルスのため中止)。このコンクールは、全体を統括する組織がない中で、業界を「緩やかにつなぐ」役割を果たしている[77]

前年に富山産業大博覧会を終え、一時的に消費が冷え込んだ地元商店街の活性化と、観光客を招くため富山の宣伝を企図して、富山市と富山商工会議所が主催の「桜まつり」の催しとして始まり、42のチンドン屋が参加、平日昼間に行われたパレードには8万人が集まった[78]

「全日本チンドンコンクール」の記録では、1955年の第1回に42団体が参加、以後団体数は50前後を推移するが1972年から下降を始め、1981年には18団体まで減少する。その一方で、素人チンドンコンクールも始まり、そこからプロのチンドンマンに転進するものもみられ、その後プロ部門では30組前後の団体が出場している。

1960年半ば頃からは、テレビの普及などもあり、チンドン屋は「古くさい」ものとなってしまう[79]。さらに昭和30年代頃からスピーカーを通した宣伝広告が音響上の脅威となり、加えて自動車の交通量が増加し商店街や横丁をも通行するようになったことで、都市においてチンドン屋が活動できる空間は狭まった[80]

昭和40年頃から衰退を見せはじめ、1973年の石油ショック以後急激に数を減らし、数百人程度にまで落ち込んだが[81]、仕事自体は減っていなかったという証言も多い[82]
大阪のちんどん通信社と『東京チンドン』(ビデオ) チンドン屋、早稲田大学の卒業式で(2015年)

1989年の昭和天皇崩御による自粛ムードは、ほぼ1年間チンドン屋の営業を不可能にさせたという[79][83]

しかし、1980年代後半から、「古くさいもの」「懐かしいもの」ではないチンドン屋へのアプローチが始まった。[要出典]

大阪では、1984年に林幸治郎がリーダーとして個人商店「ちんどん通信社」を旗揚げ[84][85]。林は立命館大学出身であり、マスコミから「学士ちんどん屋」と取り上げられた[86]。なお、1995年には法人化して有限会社東西屋となったが、引き続き「ちんどん通信社」名で活動を継続している[87]

東京では、じゃがたらなどで活動していた篠田昌已[88]、A-musikやルナパーク・アンサンブルで活動していた大熊ワタルらが、高田宣伝社で楽士としてチンドン演奏をはじめ、記録として『東京チンドンVol.1』を録音した[88]。篠田はコンポステラを結成し、音楽家としてチンドンで奏でられる音楽を取り入れる試みを続けるが、1992年に急逝する。大熊は、ソウル・フラワー・ユニオンソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と共に震災後の神戸などでも活動し、雑誌などでもチンドンに関する記事を執筆している。また、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットによる、チンドン・アレンジのライヴ活動やCDリリース(『アジール・チンドン』『レヴェラーズ・チンドン』『デラシネ・チンドン』)が、若年層にチンドンを広めることにもなった。

これら新世代の活動はチンドンの存在を若い世代に伝え、既存業者の高齢化[89]と相まって、チンドン業界へ若い人材が参入する流れが生まれた。2001年に全国のチンドン屋の数は150人ほどとされる[90]。商店の宣伝が主要な仕事とはいえ、大企業のキャンペーンや町おこしのイベント、結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋はパフォーマンスを営業案内に含めることも多い[91][92][93]


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