チンドン屋
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「チンドン屋」という言葉は、1878年12月11日の『郵便報知新聞』見出し「チンドン屋よろしく大道飴売」や、1889年10月6日の『東京日日新聞』見出し「条約改正論戦、チンドン屋総出の形」などに見られるように、明治初期から存在したが、用例が少なく、その語が意味する対象は明らかではない[12]

現代(21世紀)のチンドン屋に繋がるものとして「チンドン屋」の呼称が普及しはじめたのは、大正末から昭和初期と考えられ、確認できる用例は、1930年頃からある[† 3]。当初は、単独で華美な衣装を身につけ、口上を行うことに対して「チンドン屋」の呼称が用いられており、必ずしも三味線管楽器の演奏を伴わない形態であったと推察される[† 4]

チンドン屋を指して、披露目屋・広目屋という表現が用いられることがある。披露目屋は、開店披露の仕事をすることが多かったため[14]、あるいは芝居の口上に由来するとされる。広目屋は、広告宣伝、装飾、興行などを手掛けた秋田柳吉が起こした会社の名で、依頼に応じて楽隊を派遣したことで楽隊広告の代名詞として用いられるようになった[15]

関西では東西屋という表現が用いられることがある。東西屋は、大阪の勇亀(いさみかめ)が芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を流用して寄席の宣伝請負を行ったことから広まった[16]

現代(21世紀)、これらの語を使い分ける場合は、広目屋は楽隊の存在を重視し、東西屋は口上を主体とする意味合いを含む。この呼称は明治期から用いられ、昭和初期にチンドン屋へと変化したと思われるが[17]、歴史的経緯については、次節を参照のこと。
歴史アラスカ・ユーコン太平洋博覧会(en:Alaska?Yukon?Pacific Exposition)に参加した日本の東西屋(ちんどんや) 1909年

チンドン屋の起源については、諸説あるが[† 5]、本節では、街頭宣伝業である東西屋・広目屋の始まりから記述する。
チンドン屋前史
戦国時代末期

元来は、大歌舞伎と同じく出雲阿国のややこ踊り、かぶき踊りを起源とする。
江戸末期から明治初期:ルーツとしての飴売と大道芸

楽器を用いたり口上を述べたりして物を売り歩く職業としては、江戸中期より「飴売」という存在があり[18]文久年間には日本橋の薬店の店主が緋ビロード巾着を下げ、赤い頭巾をかぶって市中を歩き広告をしたという記録があるが[19]、これは自身の売り物を宣伝するためであり、広告請負であるチンドン屋とは異なる[19]

また、芝居小屋では鳴物囃子が客寄せのために使われていた。本項では、東西屋の祖として「飴勝」という飴売と、大道芸の「紅かん」という江戸期の人物から始める。

飴勝は、大坂・千日前法善寺を拠点として、弘化期に活動していた飴売で、その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった[20]。短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、「今日は松屋町の何々亭…」と呼び込みを行ったとされる[21][22]。飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を用いて寄席の宣伝を行っていたことから、1880 - 81年頃に東西屋と呼ばれるようになった[16]。やがて、東西屋は街頭宣伝業の一般名詞へと転じた[16]。勇亀のほかには、豆友という東西屋が知られていた[16]。豆友は1891年に他界、弟が跡を継いで二代目を名乗り、初代の長男と次女を伴って活動を始めるが、1893年に感電死した[23][24]

紅かんは、安政期から明治初期にかけて活動していた大道芸人で、仁輪加の百眼を付け、大黒傘を背負い、「七輪の金網を打鉦に小太鼓を腰に柳のどう(胴)に竹の棹に天神はお玉という三味線」で演奏し、下町で人気を得ていたとされる。大正期にも通称、紅屋の勘ちゃんという男がいて、両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけて、バチで三味線と太鼓を一緒に鳴らして街を歩いたことがヒントとなってチンドンが作られたという。「紅かん」と「紅勘」の繋がりは明らかではないが、演奏芸の様態としては、チンドンの原型と言えるだろう[25]
東西屋と広目屋広目家の広告 鈴木春風(1851 - 1913)の写本『世渡風俗図会』[26]

明治20年代になると、大阪では、丹波屋九里丸(息子が漫談家で売った花月亭九里丸)、さつまやいも助が中心的な存在となり[27]、東京では秋田柳吉の広目屋が楽隊広告を始める[28]。1874年に木村屋が売り出したアンパン文明開化の象徴的食べ物として明治天皇のお墨付きを得、初めて宣伝用にチンドン屋を用いたとされている[29]

丹波屋九里丸は、1887年頃からを売りはじめ、売り声が評判となり、東西屋に転じた[30]。九里丸は東西屋開業前から囃子方を加え、開業後は自身が拍子木、相棒に太鼓を叩かせて街を歩いた[30]。柏屋開店の仕事の際に、羽衣をあしらった長襦袢を纏い、忠臣蔵になぞらえた音曲入りの口上が評判となり、人気を博した[31]

他方、広目屋は、大阪出身の秋田柳吉が上京した1888年に八重洲で起業した会社の屋号で[32][33][34][35]仮名垣魯文の命名による[36][37][38]。広目屋は広告代理店、装飾宣伝業の先駆けとなるほか、新聞を発行したり、活動写真[39]川上音二郎の芝居など興行全般に手を広げた[40]

その一環として、宣伝のための楽隊を組織したため、楽隊を用いた路上広告を一般に広目屋と呼ぶようになった[41]

西洋楽器による街頭演奏は、軍楽隊による行事・式典での演奏の他、1887年前後から民間にも興り、明治20年に結成された東京市中音楽隊が最初の民間吹奏楽団とされるが、1885年のチェリネ曲馬団の来日など外国の楽隊の宣伝演奏、1886年に喇叭を用いた用品店の広告などの例がある。楽隊は軍歌の流行や出征軍人を送る機会の増大のため日清戦争を境に流行し、以後、活動写真やサーカスの巡業、煙草歯磨きなどの大規模な楽隊広告が行われ、地方にも楽隊広告は広まっていった[42]。1911年にライオン歯磨を宣伝した小林商店は、100本以上の幟を掲げて東海北陸地方へ広告隊を送り出している[29]

楽隊広告は、1889年、広目屋がキリンビールの宣伝を請け負い、大阪・中之島のホテル自由亭の音楽隊を派遣したのをきっかけに大阪でも取り入れられるようになる[40][43]


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