イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの ????? ??? Jink?z Kh?n (または ????? ??? Chig?z Kh?n)あるいは『集史』のような ??????? ??? Ch?nkk?z Kh?n と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 ?????? ???? ?kt?? Q?'?n、クビライは「クビライ・カアン」 ??????? ???? Q?b?l?? Q?'?n となっている。しかしながら例えばチンギス・カアン ????? ???? Jink?z Q?'?n のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような ????? ??? Jink?z Kh?n と(オゴデイ・)カアン ???? Q?'?n のような表記の書き分けは、第3代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの ????? ??? Jink?z Kh?n という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。
イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjg?na) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で ??????? ??? J?nkk?z Kh?n と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/?i?γis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で ?????????? ??? Q?b?l?? Qa'?n と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では ???? Q?'?n もしくは ???? Q?'?n と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では ??? Qa'?n と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。 後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。 漢語文献では、チンギス在世中の記録として、ムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使者孟?撰(王国維の研究により著者は趙?と校正された)の報告書『蒙韃備録
漢語文献での「チンギス・カン」の呼称
1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、イェスゲイ・バアトルやトルイなどの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。また、1309年12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された[41]。これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。」と記されている。 以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・カアン」系に呼称が遷移した。近代モンゴル語 Чингис Хаан [?i?g?s χa??]
中期モンゴル語と近現代モンゴル語の音韻
一方で、ペルシア語文献でのアラビア文字(ペルシア文字)転写で多い、????? ??? Chig?z Kh?n を仮名転写すると「チンギーズ・ハーン」となり、近現代モンゴル語の「カアン」 (Qa'an) の発音転写とアラビア文字表記での「カン」 (Qan) の仮名転写が、「ハーン」という同一の転写になってしまう。「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。 このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱をきたすようになった。一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「成吉思汗」と書かれる。ただし、「汗」の読みは中国でも年代や地域により異なり、「ハン」「ホン」、?東語・?南語では「カン」(ガン)となるが、古代の上古中国語では「ガーン」であった[43]。
「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」