チンギス・カン
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1162年5月31日[1](諸説あり)[2]
デリウン・ボルダク(現在のヘンティー山脈モンゴル国ヘンティー県ダダル郡?)[3]
死去太祖22年7月12日
1227年8月25日[4]
六盤山涼殿峡(現在の寧夏回族自治区固原市源県[3]
埋葬起輦谷/クレルグ山モンゴル高原
配偶者ボルテクラン、イェスイ(イェスゲン)、岐国公主、イェスルン 他 下記参照
子女ジョチチャガタイオゴデイトルイコルゲン下記参照
父親イェスゲイ
母親ホエルン
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モンゴル国政府宮殿 正面向かって中央に鎮座するチンギス・カン像

チンギス・カン(モンゴル語キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:?inggis Qan または ?inggis Qa'an、漢字:成吉思汗、英語:Genghis Khan、1162年5月31日[1] - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。死後は廟号を太祖、を法天啓運聖武皇帝と称した。日本語での名前表記については複数の表記揺れがある(#名前の節を参照)。

大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴル遊牧民諸部族を一代で統一し、中国中央アジアイラン東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている[2]
生涯
チンギス・カンの先祖

チンギス・カンが生まれたモンゴル部は6世紀から10世紀にかけて大興安嶺山脈付近に存在した室韋(しつい)の一部族であった。室韋はまたの名を三十姓タタルと呼ばれ、多数の部族で構成されていた。9世紀ウイグル可汗国が崩壊すると、室韋はモンゴル高原に広がり、九姓タタル[5]という国も建てて繁栄したが、契丹族のがモンゴル高原を支配する頃には九姓タタルの名前は消え、阻卜(そぼく)、烏古(うこ)、敵烈(てきれつ)、達旦(たつたん)といった数部族に分かれ遼の支配下に入った。その頃バイカル湖の方面にも広がっていたモンゴル部族が南下してきてモンゴル高原の北東部に落ち着いた。1084年、モンゴル部は契丹帝国に使者を派遣したため、『遼史』には「萌古国」という名前で記されている[6]

チンギス・カンの生涯を描いたモンゴルの伝説的な歴史書『元朝秘史』によれば、その遠祖は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立ったボルテ・チノ(「蒼き狼」の意)とその妻なるコアイ・マラル(「青白き鹿」の意)であるとされる。ボルテ・チノの11代後の子孫のドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、その未亡人のアラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である。ボドンチャルの子孫は繁栄し、様々な氏族を分立させ、ウリャンカイジャライルといった異族を服属させて大きな勢力となった。

やがて、ボドンチャルから7代目のカブルが初めてモンゴル諸部族を統一して「あまねきモンゴル」のカン(qan)の称号を名乗った。カブル・カンの子孫はのちにキヤト氏と称し、モンゴル部の有力氏族となる。カブル・カンが亡くなると2代目カンに即位したのはカブル・カンの又従兄弟アンバガイ・カンであった。彼の子孫はのちにタイチウト氏と称し、キヤト氏と並んでモンゴル部族の有力氏族となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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