チンギス・カン
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日本軍占領下でバトマラプタンボヤンマンダフ松王の後押しによって建てられたウランホト市の成吉思汗廟もむしろ革命的なシンボルとして政府の資金で改修などがされており[25]歴史劇としてチンギス・カンの子孫[26][27]であるモンゴル族俳優のバーサンジャブを主演に据えたテレビドラマ「チンギス・ハーン」や映画が制作されて内モンゴル自治区ではチンギス・ハーン鎮(中国語版)などの地名やチンギス・カンの像があり、モンゴルを訪問した際に習近平のような中国の指導者はチンギス・カン像に頭を下げて敬意を表し[28][29]、中国国内ではチンギス・カンの肖像を踏みつけるといった行為は年少者でも民族の英雄を侮辱した罪で逮捕・実刑を受けているが[30][31][32]、あくまで中国政府の主張する「中華民族の英雄」[33][34]としての崇拝が認められており、人権活動家で内モンゴル独立運動家のハダとモンゴル族の若者が集まってチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟すると「国家分裂扇動」「スパイ活動」として逮捕・拘禁されている[35][36]
宗室

集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。
父母兄弟

イェスゲイ

ホエルン

次弟 ジョチ・カサル

三弟 カチウン

四弟 テムゲ・オッチギン

異母弟 ベルグテイ・ノヤン『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベグテルという、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベグテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベグテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。

テムルン - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ


后妃

チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (????? ????? K?nj? Kh?t?n) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。
大オルド

ボルテ・ウジン(孛児台旭真太皇后) コンギラト部族デイ・セチェンの娘(正宮 孛剌合真皇后)

忽魯渾皇后

闊里桀皇后

脱忽思皇后

帖木倫皇后

亦憐真八剌皇后


第二オルド

クラン(忽蘭皇后) ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘

哈児八真皇后

亦乞剌真皇后

脱忽茶児皇后

也真妃子

也里忽禿妃子

察真妃子

哈剌真妃子


第三オルド

イェスルン(
イェスイ 也速皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスゲンの姉。

忽魯哈剌皇后

阿失倫皇后

禿児哈剌皇后

察児皇后

阿昔迷失皇后

完者忽都皇后

渾魯忽歹妃子

忽魯灰妃子

剌伯妃子


岐国公主 金朝皇帝・衛紹王の娘

第四オルド

イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの妹。

忽答罕皇后

哈答皇后

斡者忽思皇后

燕里皇后

禿干妃子

完者妃子

金蓮妃子

完者台妃子

奴倫妃子

卯真妃子

鎖郎哈妃子

八不別及妃子

『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。

ベクトゥトミシュ・フジン
ケレイトのジャガ・ガンボの娘でトルイの妃ソルコクタニ・ベキらの姉妹。

グルベス・ハトゥン ナイマン部族連合の首長タヤン・カンの第一ハトゥンだった人物。

チャク・ハトゥン 西夏皇帝の娘。


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