チンギス・カン
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カンとカアンについて

チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・カン」系と「チンギス・カアン」系の2種類に大別出来る。
「チンギス・カン」系の資料

本来、13 - 14世紀当時の中期モンゴル語では「チンギス・カン」 (?inggis Qan) と称していたことが同時代資料の調査から分かっている。

これは、当時のウイグル文字モンゴル語ではイェスンゲ紀功碑などでも CYNKKYZ Q'N (?inggis Qan) と書かれ、第5代モンゴル皇帝クビライの大元ウルスで開発されたパスパ文字によるモンゴル語皇帝聖旨碑文でも ?i?-gis qa-nu とある[39]

また13世紀のアラビア語・ペルシア語年代記では、イブン・アル=アスィールの『完史 (al-K?mil f? al-Ta'r?kh) 』(1231年成立)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーン伝 (S?rat al-Sul??n Jal?l al-D?n Mankubirt?) 』(1240年代初頭成立)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 (Tabaq?t-i N??ir?) 』(1260年成立)といったモンゴル帝国外で成立した資料では ????? ??? Jink?z Kh?n (ペルシア語資料の刊本では現在のペルシア文字の ? ?/ch や ? g が補われて ????? ??? Ching?z Kh?n )などと表記されており、モンゴル帝国側の資料と言えるジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』(1260年成立)でもやはり ????? ??? Ching?z Kh?n などとなっている。ラシードゥッディーンの『集史』(1314年成立)では編者のラシード在世中に書写された紀年(1317年書写)を持つ現存最古の写本、いわゆる「イスタンブール本」(Revan ko?ku No. 1518)では、(ウイグル文字での綴りを反映していると思われるが) ??????? ??? Ch?nkk?z Kh?n とあって同書では「チンギス・カン」は一貫してこの綴りを用いている。このように13 - 14世紀のモンゴル帝国内外のアラビア語・ペルシア語文献ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分は、従来からあったテュルク語の χan (ハン)のアラビア文字転写である ??? kh?n を用いた。
「チンギス・カアン」系の資料

一方で、後代のモンゴル語文献では「チンギス・カアン」 (?inggis Qa'an/?inggis Qaγan) という言い方もされている。

17世紀初頭に成立した『アルタン・ハーン伝』などでは、「チンギス・カアン」 (CYNKKYZ Q'Q'N /?inggis Qaγan) の綴りで表記され、サガン・セチェン蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などの代表的な近代以降のモンゴル語年代記でも同様に表記されている。現存最古のモンゴル語による歴史書文献で明代に入って最終的な編纂をみる洪武刊十二巻本『元朝秘史』でも「成吉思可罕」 (?inggis Qahan) となっており、現存の『元朝秘史』は明代のものだが、14世紀末の「チンギス・カアン」系の資料である。
「チンギス・カン」と「チンギス・カアン」の対立

「カン」と「カアン」の違いについてだが、ハーンの項目でも述べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγan) は、一般的な「王」や「君主」を意味する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝」の意味として、第2代皇帝オゴデイによって古代の「カガン」 (Qaγan) の称号を復活させて用いられたと考えられており、第4代モンケ、第5代クビライによってモンゴル皇帝の称号として定着した。

13 - 14世紀にモンゴル帝国側の資料で「チンギス・カアン」 (?inggis Qa'an/?inggis Qaγan) と呼ぶ例は、皆無ではないが筆記者による書き間違いなどの可能性もあるレベルで、一般的ではなかったようである。

例えば、大元ウルスでの場合、少林寺蒙漢合璧聖旨碑の例を挙げると、タツ年(至元5年戊辰、1268年)正月25日の紀年を持つウイグル文字モンゴル語によるクビライの聖旨碑文には、チンギスは CYNKKYZ X'N/?inggis Qan と書かれ、オゴデイは単に X'X'N/Qaγan?Qa'an と書かれている。およそ半世紀のちのネズミ年(皇慶元年壬子、1318年)3月13日の紀年のある同じ碑石に刻された仁宗アユルバルワダによる聖旨碑でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ?i? -gis qa-nu/?i?gis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "o-k?o-da? q・a-nu/Okodei Qa'an-u 、クビライは尊号である「セチェン・カアンの」 sa-?an q・a-nu/Se?en Qa'an-u で呼ばれており、続く成宗テムルも同じく尊号の「オルジェイトゥ・カアンの」 "o?l-?a?-t?u q・a-nu/O?l?eitu Qa'an-u、武宗カイシャンも尊号の「クルグ・カアンの」k?u-lug q・a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号のまま使われており、オゴデイ以下他と区別がされている[39]グユクのインノケンティウス4世宛国書。15行目に「チンギス・カンと(オゴデイ・)カアン ( ????? ??? ? ???? Jink?z Kh?n wa Q?'?n) 」と書かれている。(日本語訳[40])(ペルシア語バチカン図書館蔵)

イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの ????? ??? Jink?z Kh?n (または ????? ??? Chig?z Kh?n)あるいは『集史』のような ??????? ??? Ch?nkk?z Kh?n と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 ?????? ???? ?kt?? Q?'?n、クビライは「クビライ・カアン」 ??????? ???? Q?b?l?? Q?'?n となっている。しかしながら例えばチンギス・カアン ????? ???? Jink?z Q?'?n のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような ????? ??? Jink?z Kh?n と(オゴデイ・)カアン ???? Q?'?n のような表記の書き分けは、第3代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの ????? ??? Jink?z Kh?n という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。

イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjg?na) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で ??????? ??? J?nkk?z Kh?n と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/?i?γis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で ?????????? ??? Q?b?l?? Qa'?n と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では ???? Q?'?n もしくは ???? Q?'?n と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では ??? Qa'?n と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。
漢語文献での「チンギス・カン」の呼称

後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。


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