チンギス・カン
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^ a b c デリウン岳 Deli'un Boltaq (迭里温孛勒荅中合)での出産についても、主な資料では共通して述べている。『集史』では ???? ?????? Dil?n B?ld?q 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号、1967年、p.1 - 16(ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『内陸アジア史論集』第2、内陸アジア史学会編 国書刊行会 東京、1979年、p.71 - 86. 再録);村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社、1970年、p.79 - 80.
^ a b チンギス・カン崩御の日時について、『元朝秘史』『聖武親征録』など亥年や65歳であったことなど以外は全く言及されていないが、ジュヴァイニーの『世界征服者史』やバル・ヘブラエウスの『諸王朝史略(Ta'r?kh mukhta?ar al-duwal)』などのヒジュラ暦624年ラマダーン月4日という記述から1227年8月25日になる(Qazv?n?, vol.1, p,144/Bar Hebraeus, T?r?kh mukhta?ar al-duwal ,Bayr?t, D?r al-Mashriq, 1992. p.244.)。(ドーソンの『モンゴル帝国史』やボイル J.A. Boyle の『世界征服者史』の英訳 The World-Conqueror, vol. 1, p.182., note 11 では崩御日時を「1227年8月18日」としているが、これはヒジュラ暦624年ラマダーン月4日をユリウス暦に変換すると1227年8月18日になるためとも考えられる) また、『元史』太祖本紀の太祖二十二年秋七月条に「秋七月壬午,不豫。己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。臨崩謂左右曰:「金精兵在潼關,南據連山,北限大河,難以遽破。若假道于宋,宋、金世讎,必能許我,則下兵唐、ケ,直擣大梁。金急,必?兵潼關。然以數萬之衆,千里赴援,人馬疲弊,雖至弗能戰,破之必矣。」言訖而崩,壽六十六。葬起輦谷。」とある。『元史』での不予(病を患った)となった太祖二十二年七月壬午は1227年8月18日であり、崩御した同七月己丑は1227年8月25日になる。また、ラシードゥッディーンの『集史』チンギス・ハン紀では、「亥年の秋の中月の15日、すなわち(ヒジュラ暦)624年ラマダーン月に崩御あそばされた。( ? ??????? ??? ?? ??? ????? ????? ??? ???? ????? ??? ????? ??? ???????? ?? ???????? ?? ???????????? ?? ???? ???? ?????? wa P?nzdahum r?z az m?h-i Miy?na-yi P?'?z-i s?l-i Kh?k muw?fiq-i m?h-i Rama??n sana Arba` wa `Ishr?n wa Sitta-Mi'a, az jah?n fan? gudh?sht. :Rarshan&M?saw?, vol. 1, p. 541.)」とあり、別の箇所では「先述の亥年の閏月(sh?n-?y)、すなわちヒジュラ暦624年ラマダーン月14日に彼の棺(marqad)は彼の諸オルドへ運ばれ、(チンギス・カンの崩御の)出来事が明らかにされた( ?? ???? ?? ??? ??? ?????? ????? ??????? ????? ??? ???????? ?? ???????? ?? ??????????? ????? ???? ?? ?? ?? ???????? ?? ???????? ? ????? ????? ????? /dar Sh?n-?y-yi s?l-i Kh?k-i madhk?r, muw?fiq-i Chah?rdahum-i Rama??n sana Arba` wa `Ishr?n wa Sitta-Mi'a-yi Hijr?, marqad-i ? r? bi ?rd?-h?-yi ? ras?n?dand wa a?h?r-i w?fi`a kardand)」。しかし、前者の「秋の中月の15日」という日時のとおりでは1227年9月26日になってしまい、さらに後者の「閏月」という記述を受け入れると、同年の「閏5月15日」は1227年6月30日となるため、それぞれのヒジュラ暦と中国暦との整合性が取れなくなる。ポール・ペリオは「秋の中月の15日」は「秋の初月の15日」の誤り(すなわち「秋の初月の15日」は陰暦の7月15日なので1227年8月28日になる)と考えた。また、「閏月」についても、中国暦ではこの年の閏月は5月の後だが、ウイグル暦では7月の後に閏月を置いたであろうとして、「ラマダーン月の14日」とは中国暦での「7月25日」、西暦での「1227年8月28日」となるだろう、と論じた(Paul Pelliot, Note on Marco Polo, vol. 1., Paris, 1959, pp.305-309.)。また、『元史』が崩御の場所としている「薩里川哈老徒之行宮」も西夏国内ではなくモンゴル高原のあたりになるため崩御の地とは考え難く、恐らく葬儀が執り行われた地と解するのが妥当と考えられる。村上正二によると、あるいは、18日に亡くなり、25日か28日には遺骸をモンゴル本土へ運び葬儀を執り行ったのでは、と論じている。(村上正二訳註『モンゴル秘史 3』p.274-275.)
^10世紀から11世紀における「九姓タタル国」
^ 『遼史』本紀第二十四 道宗四「(大康)十年春正月辛丑朔,如春水。丙午,復建南京奉福寺浮圖。戊辰,如山楡淀。二月庚午朔,萌古國遣使來聘。三月戊申,遠萌古國遣使來聘。丁巳,命知制誥王師儒、牌印郎君耶律固傅導燕國王延禧。」
^ 村上 1970,p66-77
^ 佐口 1968,p29-30
^ この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見えるポール・ペリオによると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『雑阿含経』第25巻にある『アショーカ王物語』 (A?ok?vad?na) の中の、カウシャーンビーの王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショーカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に付け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。
^ ちなみに、この「テムジン」 (temu?in) とはテュルク・モンゴル語で「テムルチ」 (temur-?i) 、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶屋だった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13 - 14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家パキメレスや、同じくマムルーク朝の歴史家ヌワイリー、1247年のグユクの即位に列席したキリキア小アルメニア王国のハイトン1世の旅行記、さらには1254年にモンケの宮廷を訪れたルブルクのギヨーム修道士の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。[要出典]
^ 村上 1970,p78-91
^ 村上 1970,p99-198
^ 杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)94 - 95頁などを参照。
^ 『元史』太祖本紀:太祖二十二年秋七月条「秋七月壬午,不豫。己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。葬起輦谷。」
^チンギスハンの墓は四川省? 末裔の女性が新証言
^ Tatiana Zerjal, Yali Xue, Giorgio Bertorelle, R. Spencer Wells, Weidong Bao, Suling Zhu, Raheel Qamar, Qasim Ayub, Aisha Mohyuddin, Songbin Fu, Pu Li, Nadira Yuldasheva, Ruslan Ruzibakiev, Jiujin Xu, Qunfang Shu, Ruofu Du, Huanming Yang, Matthew E. Hurles, Elizabeth Robinson, Tudevdagva Gerelsaikhan, Bumbein Dashnyam, S. Qasim Mehdi, and Chris Tyler-Smith, "The Genetic Legacy of the Mongols", American journal of human genetics, 72-(3), 2003., p.717-721.
^ Charlotte Schubert, "Y chromosomes reveal founding father", Nature Digest, 2005, p.6(邦題「Y 染色体は始祖を表す」)
^ ブライアン・サイクス『アダムの呪い』(大野晶子訳) ソニー・マガジンズ、2004年5月、p.244-250
^ 早川智「青い血のカルテ(28)Y染色体とチンギス・ハーンの子孫」『産科と婦人科』73-(4)、2006年4月、p.532-535
^ Michael Kohn (1 January 2006). Dateline Mongolia: An American Journalist in Nomad's Land. RDR Books. pp. 35?. ISBN 978-1-57143-155-4.
^ Zhamsrangi?n Sambuu (2010). Herdsman to Statesman: The Autobiography of Jamsrangiin Sambuu of Mongolia. Rowman & Littlefield. pp. 125?. ISBN 978-1-4422-0750-9.
^ “ ⇒????夫:从草原之子到国家??人 曾??内蒙古收?三千名孤儿(??)”. 人民網 (2014年12月9日). 2018年3月14日閲覧。
^ Bayar, Nasan (2007), "On Chinggis Khan and Being Like a Buddha: A Perspective on Cultural Conflation in Contemporary Inner Mongolia", The Mongolia?Tibet Interface: Opening New Research Terrains in Inner Asia, Brill's Tibetan Studies Library, Vol. 10/9, Proceedings of the 10th Seminar of the IATS, Oxford, 2003, Leiden: Brill, pp. 212.
^ “ ⇒涼殿峡”. 新華社 (2017年6月1日). 2018年3月14日閲覧。
^ 森時彦編『20世紀中国の社会システム : 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告』収録「成吉思汗廟の創建 / 田中剛 著」
^巴森:再?成吉思汗?采(??) 新浪网 (中国語)
^北方新?网 中国蒙古学信息网 (中国語)
^ “ ⇒習近平向成吉思汗雕像點頭致意”. 人民網 (2014年8月22日). 2018年2月24日閲覧。
^ “ ⇒習近平彭麗媛向成吉思汗雕像點頭致意”. 多維新聞網 (2014年8月22日). 2018年2月24日閲覧。
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