チンギス・カン
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^ a b c 一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。
1155年説については、主にイルハン朝ガザンオルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・カン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i wal?dat-i ? az ibtid?'-yi Q?q? y?l ki s?l-i Kh?k ast, muw?fiq-i shuw?r-i sanna-yi tis`a wa arba`?na wa khamsa-mi'a Hijr? ki dar m?h-i Dh? al-Qa`da w?qi` shuda …(Rash?d/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Q?r? B?q?)とテムジン・ウゲ(Tam?j?n ?ka)捕縛の年であったことが説明されている(Rash?d/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Q?q? y?l ki s?l-i Kh?k ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ? haft?d u du s?l b?da, wa dar s?l-i haft?d u siyyum waf?t y?fta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。
一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、孟?の撰(王国維の研究により著者は趙?と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。
このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者柯劭サ(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。
^ a b c デリウン岳 Deli'un Boltaq (迭里温孛勒荅中合)での出産についても、主な資料では共通して述べている。『集史』では ???? ?????? Dil?n B?ld?q 、『聖武親征録』では跌里温盤陀山と書かれている。ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『遊牧社会史研究』第30号、1967年、p.1 - 16(ドルヂスレン・ツェー著、小澤重男 訳「チンギス・ハーンの生れたデリウン・ボルダクは何処にあるか」『内陸アジア史論集』第2、内陸アジア史学会編 国書刊行会 東京、1979年、p.71 - 86. 再録);村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』(東洋文庫)第1巻、平凡社、1970年、p.79 - 80.
^ a b チンギス・カン崩御の日時について、『元朝秘史』『聖武親征録』など亥年や65歳であったことなど以外は全く言及されていないが、ジュヴァイニーの『世界征服者史』やバル・ヘブラエウスの『諸王朝史略(Ta'r?kh mukhta?ar al-duwal)』などのヒジュラ暦624年ラマダーン月4日という記述から1227年8月25日になる(Qazv?n?, vol.1, p,144/Bar Hebraeus, T?r?kh mukhta?ar al-duwal ,Bayr?t, D?r al-Mashriq, 1992. p.244.)。(ドーソンの『モンゴル帝国史』やボイル J.A. Boyle の『世界征服者史』の英訳 The World-Conqueror, vol. 1, p.182., note 11 では崩御日時を「1227年8月18日」としているが、これはヒジュラ暦624年ラマダーン月4日をユリウス暦に変換すると1227年8月18日になるためとも考えられる) また、『元史』太祖本紀の太祖二十二年秋七月条に「秋七月壬午,不豫。己丑,崩于薩里川哈老徒之行宮。臨崩謂左右曰:「金精兵在潼關,南據連山,北限大河,難以遽破。若假道于宋,宋、金世讎,必能許我,則下兵唐、ケ,直擣大梁。金急,必?兵潼關。然以數萬之衆,千里赴援,人馬疲弊,雖至弗能戰,破之必矣。」言訖而崩,壽六十六。葬起輦谷。」とある。『元史』での不予(病を患った)となった太祖二十二年七月壬午は1227年8月18日であり、崩御した同七月己丑は1227年8月25日になる。また、ラシードゥッディーンの『集史』チンギス・ハン紀では、「亥年の秋の中月の15日、すなわち(ヒジュラ暦)624年ラマダーン月に崩御あそばされた。( ? ??????? ??? ?? ??? ????? ????? ??? ???? ????? ??? ????? ??? ???????? ?? ???????? ?? ???????????? ?? ???? ???? ?????? wa P?nzdahum r?z az m?h-i Miy?na-yi P?'?z-i s?l-i Kh?k muw?fiq-i m?h-i Rama??n sana Arba` wa `Ishr?n wa Sitta-Mi'a, az jah?n fan? gudh?sht. :Rarshan&M?saw?, vol. 1, p. 541.)」とあり、別の箇所では「先述の亥年の閏月(sh?n-?y)、すなわちヒジュラ暦624年ラマダーン月14日に彼の棺(marqad)は彼の諸オルドへ運ばれ、(チンギス・カンの崩御の)出来事が明らかにされた( ?? ???? ?? ??? ??? ?????? ????? ??????? ????? ??? ???????? ?? ???????? ?? ??????????? ????? ???? ?? ?? ?? ???????? ?? ???????? ? ????? ????? ????? /dar Sh?n-?y-yi s?l-i Kh?k-i madhk?r, muw?fiq-i Chah?rdahum-i Rama??n sana Arba` wa `Ishr?n wa Sitta-Mi'a-yi Hijr?, marqad-i ? r? bi ?rd?-h?-yi ? ras?n?dand wa a?h?r-i w?fi`a kardand)」。しかし、前者の「秋の中月の15日」という日時のとおりでは1227年9月26日になってしまい、さらに後者の「閏月」という記述を受け入れると、同年の「閏5月15日」は1227年6月30日となるため、それぞれのヒジュラ暦と中国暦との整合性が取れなくなる。ポール・ペリオは「秋の中月の15日」は「秋の初月の15日」の誤り(すなわち「秋の初月の15日」は陰暦の7月15日なので1227年8月28日になる)と考えた。また、「閏月」についても、中国暦ではこの年の閏月は5月の後だが、ウイグル暦では7月の後に閏月を置いたであろうとして、「ラマダーン月の14日」とは中国暦での「7月25日」、西暦での「1227年8月28日」となるだろう、と論じた(Paul Pelliot, Note on Marco Polo, vol. 1., Paris, 1959, pp.305-309.)。また、『元史』が崩御の場所としている「薩里川哈老徒之行宮」も西夏国内ではなくモンゴル高原のあたりになるため崩御の地とは考え難く、恐らく葬儀が執り行われた地と解するのが妥当と考えられる。村上正二によると、あるいは、18日に亡くなり、25日か28日には遺骸をモンゴル本土へ運び葬儀を執り行ったのでは、と論じている。(村上正二訳註『モンゴル秘史 3』p.274-275.)
^10世紀から11世紀における「九姓タタル国」
^ 『遼史』本紀第二十四 道宗四「(大康)十年春正月辛丑朔,如春水。丙午,復建南京奉福寺浮圖。戊辰,如山楡淀。二月庚午朔,萌古國遣使來聘。三月戊申,遠萌古國遣使來聘。丁巳,命知制誥王師儒、牌印郎君耶律固傅導燕國王延禧。」
^ 村上 1970,p66-77
^ 佐口 1968,p29-30
^ この時、出生したばかりのテムジンは「右手に髀石のような血の固まりを握りしめていた」と伝承されているが、この有名な逸話は『元朝秘史』のみならず『集史』、『元史』、『聖武親征録』などにも見えるポール・ペリオによると、この「血のかたまりを握って生まれる」という伝承は、『雑阿含経』第25巻にある『アショーカ王物語』 (A?ok?vad?na) の中の、カウシャーンビーの王マハーセーナの逸話と関係していると言う。この『アショーカ王物語』の伝説によれば、マハーセーナ王に鎧を身に付け手に血のかたまりを持つ息子が生まれ、やがてこの生まれた息子は全世界を支配する王者になるが、それまでに計り知れないほどの犠牲者を出すであろう、という不吉な予言を受けたと言う。これは経典中では仏教を破る凶悪な王者の相として語られているものであるが、ペリオは『元朝秘史』にみえるこの伝承は、仏教的な凶兆としてよりは、古い仏教伝承を起源としながらもアジア内陸において世界を征する強大な王者の瑞兆として変化し流布したものであろうと推測している。
^ ちなみに、この「テムジン」 (temu?in) とはテュルク・モンゴル語で「テムルチ」 (temur-?i) 、すなわち鉄(テムル)を作る人、鍛冶職人」を意味する単語の省略形だったため、「テムジン=チンギス・カンは鍛冶屋だった」という伝説が流布するようになった。この種の「チンギス・カン鍛冶職人伝説」とも言える伝承は、13 - 14世紀に活躍した東ローマ帝国の歴史家パキメレスや、同じくマムルーク朝の歴史家ヌワイリー、1247年のグユクの即位に列席したキリキア小アルメニア王国のハイトン1世の旅行記、さらには1254年にモンケの宮廷を訪れたルブルクのギヨーム修道士の旅行記などに記録されており、13世紀中頃という早い時期から帝国の外来の人々に広く流布していたようである。[要出典]
^ 村上 1970,p78-91
^ 村上 1970,p99-198
^ 杉山正明、北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論社、1997年)94 - 95頁などを参照。
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