チンギス・カンの西征
[Wikipedia|▼Menu]
両将軍は、カフカース山脈を越えてキプチャク草原に進出し、キエフ・ルーシなどのルーシ諸公の連合軍とカルカ河畔において戦った(カルカ河畔の戦い)。団結力に欠ける連合軍が統率のとれた歴戦のモンゴル軍にかなうはずもなく、連合軍は大敗した。

その後、ジェベ、スベエデイ両将軍率いるモンゴル軍の別働隊は、本隊の帰還に合流するためキプチャク草原から去っていくものの、一連のキプチャク草原の戦闘によって西ヨーロッパキリスト教諸国の間に「タタール」の名が広まっていくこととなる。
ヴォルガ・ブルガール侵攻詳細は「1223年のヴォルガ・ブルガール侵攻」を参照

サマラ屈曲部の戦い(英語版)(ケルネクの戦い)で、モンゴル軍はブルガールに敗れ、東へと去ってしまった。

1222年夏、チンギス・カンはこの方面の作戦に見切りをつけ、本拠地たるモンゴル高原への撤退を始めていた。全軍はゆっくりと進み、途中でスベエデイ率いる別働隊(ジェベは帰還途上で病没)と合流し、1225年にモンゴル高原へ帰還した。
その後の影響

一連の戦闘によって西方の新興国ホラズム・シャー朝を降し、中央アジアを傘下に入れたモンゴル帝国は、名実ともに当時のユーラシア大陸で最強の国家となり、遠く西ヨーロッパまでその名を知られることとなった。一方で、後のモンゴルの「野蛮な未開人」・「文明の破壊者」といった負のイメージの多くも、この頃のアフガニスタン方面での虐殺に根ざしている。
参考文献

杉山正明著『モンゴル帝国の興亡・上』『大モンゴルの時代』

関連項目

モンゴルのインド侵攻

長春真人

ティムール・メリク (ホラズム・シャー朝)


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef