その後、ジェベ、スベエデイ両将軍率いるモンゴル軍の別働隊は、本隊の帰還に合流するためキプチャク草原から去っていくものの、一連のキプチャク草原の戦闘によって西ヨーロッパのキリスト教諸国の間に「タタール」の名が広まっていくこととなる。
ヴォルガ・ブルガール侵攻詳細は「1223年のヴォルガ・ブルガール侵攻」を参照
サマラ屈曲部の戦い(英語版)(ケルネクの戦い)で、モンゴル軍はブルガールに敗れ、東へと去ってしまった。
1222年夏、チンギス・カンはこの方面の作戦に見切りをつけ、本拠地たるモンゴル高原への撤退を始めていた。全軍はゆっくりと進み、途中でスベエデイ率いる別働隊(ジェベは帰還途上で病没)と合流し、1225年にモンゴル高原へ帰還した。 一連の戦闘によって西方の新興国ホラズム・シャー朝を降し、中央アジアを傘下に入れたモンゴル帝国は、名実ともに当時のユーラシア大陸で最強の国家となり、遠く西ヨーロッパまでその名を知られることとなった。一方で、後のモンゴルの「野蛮な未開人」・「文明の破壊者」といった負のイメージの多くも、この頃のアフガニスタン方面での虐殺に根ざしている。
その後の影響
参考文献
杉山正明著『モンゴル帝国の興亡・上』『大モンゴルの時代』
関連項目
モンゴルのインド侵攻
長春真人
ティムール・メリク (ホラズム・シャー朝)